2015年 08月 17日
ビットとデシベル |

じゃあ、どうして短歌の本を前に書いたような苦労までして手に入れたかというと、フラワーしげるさんというのは実は小説家であり翻訳家である西崎憲さんのことで、つまりは先生の作品だからということもあるのですが、これまでにたくさんの先生に教えてもらってきているので、そうした先生方が出す本を端から買っていたら家計が破綻してしまうのでもちろんそんなことはしておらず。ただ、西崎さんのツイッターを読んでいると時々フラワーしげるさんの短歌が引用されていることがあって、それが妙に気になってたんですよね。で、一冊の本にまとまったと聞いたときに、それじゃあ一度短歌と真面目に対面してみるかという気になったわけ。カバーデザインも好みだったし。
最初に驚いたのは、176頁の本ではあるものの、なんと、1ページに1行、あるいは2行しか印刷されていない! これ、文字単価で計算したらすごく高い本になるよね(せこい)。
短歌の本ってみんなそうなのかな。これまで立ち読みもしたことがないのでわかりませんが、確かにこれは必要な措置。一首一首が独立していてそれだけの世界を創り出しているので、他の世界と混じり合わないようにする必要があるのですよ。
いくら短歌事情に疎いといっても、まさか万葉集や百人一首みたいなものだけが短歌だと思っていたわけではないし、『サラダ記念日』が爆発的に売れたことも覚えています。『サラダ記念日』が出たときにはもう30代後半だったので若い女の子のように目をハートにさせたりはしなかったけどね。
とはいえ、やはり心の隅のどこかで、短歌というのはヴァージニア・ウルフの短編を五七五七七にまとめたようなものじゃないかという気がしていたのですよ。つまり、詠んでいる歌人の意識や心象を表現しているものだという気がしていました。
でも、これを読むと短歌ってなんでもありみたい。詠み人の意識や心象を表現しているものもありますが、それ以外にも超短編小説のようなもの、シュールリアリズムの詩のようなもの、前衛劇のセリフみたいなもの、はやり歌の歌詞のようなもの、ボケ老人の独白のようなもの、ありとあらゆるものがありました。で、そのどれもが面白い。
どこがどう面白いのかと聞かれると答えられないのが短歌なのかもしれない。小説だったらプロットがとか文体がとかキャラクターがとか何かしら言えるんですが、短歌は無理。感動じゃないんですよね。感興かな、強いて言えば。あるいはインスピレーション?
一首読んだあとに、そこから話がどんどん生まれて広がっていくようなものが多いのは西崎さんが小説家だからかもしれない。誰かの短編を思い出すような歌もあります。あ、この場面、どこかで見た、というような。
作者あとがきに「本というものはあまり実用になるものではない。けれど贈答や捧げ物の用を受け持つには充分である」と書かれていました。それを読んで、作者が意図したこととはまったく違うのだけれど、病気で入院している人へのお見舞いに短歌の本は向いているかもしれないと思いました(ただし中味を読んで相手に合うかどうかチェックしてから)。短いから疲れないし、読んだあとひとりでずーっと思いをはせる時間的余裕もあるしね。
ビットとデシベル (現代歌人シリーズ)
作者:フラワーしげる
出版社:書肆侃侃房
ISBN:4863851901
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by timeturner
| 2015-08-17 20:05
| 和書
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