
平安朝の女性の生い立ちから結婚、子育て、老いにいたる一生を家での役割分担を軸に描く。
《
陰陽師》シリーズを読んでいたら、平安朝の女性の立場に興味が湧いてきました。というより、男にいいようにあしらわれては恨んだり呪ったり憑りついたりしている女たちの姿があまりにも悲惨だと思えて、心安らかに読んでいられなくなりました。
ネットで調べるとまるきり正反対のことを書いている眉唾情報が多く、これじゃあだめだと専門の歴史家が書いた本を読んでみた。
読んでみてわかったのだけれど、この時代のこと、特に無名の女性たちがどう生きたかについてはまだよくわかっていないのが現状なんですよね。それでも、この著者のような研究者が厖大な文献を隅から隅まで調べては丹念に掘り起こしている。それによって10年前には定説とされていたこともくつがえることだってある。
ネット情報がいんちき臭かったのは、それぞれの書き手が何かで読んだか聞いたかした情報を不変の真実だと思いこんで書いていたところに問題があったわけです。この本は1998年刊ですから、それ以降にも変化はあったことでしょう。
それはともかく、予想はついていましたが、平安朝の女性は大変でした。有名貴族の家に生まれれば経済的な苦労はしなくてもすみますが、その代わりに天皇に嫁がせられるような女の子を産まなくてはならないし、嫁げば嫁いだで今度は次期天皇になる男の子を産めと期待される。赤子製造マシーンですよ。
親からすれば、一刻も早く大人にして、天皇に入内させたいのである。彰子は十二歳で裳着をすると、その年一条天皇と結婚した。今なら十一歳の小学五年生である。
中下級貴族だったらそんな期待はされないかというと、これまた一夫多妻の通い婚で、正式に結婚していても夫と一緒に暮らせるのはひとりだけ。たいていは子供を産んだ妻が同居するから、ここでも必死にならざるをえない。だから、平安朝の女性は(内裏に仕える女官たちを除けば)ほとんどが子供を産まなくてはという強迫観念をもっていたらしい。想像妊娠も多かったんですって。
子どもができれば安泰というわけでもありません。
正式な結婚式をあげ、同居していた妻である北の方のもとを離れ、新しく結婚した妻と同居をはじめると、こんどはこの妻を北の方という。ということは、北の方の立場が安定していなかったことである。結婚式をあげ、貴族社会に告知しても、けっして安定した地位ではなかった。
同居していても正式の北の方にはなれない女性たち、つまり側室的、後世でいうところの妾的立場のツマたちも多かった。これが「権の北の方」だった。また、「召し人」「召し女」「召人(めしゅうど)」とよばれることも多かった。召人とは、主と恒常的な性愛関係を結んだ女房などで、正式な妻ではない女性である。このように、男性より身分が低い場合、継続的な性愛関係をもち、同居しても、妻や北の方とは認知されない女性たちも多くいたのである。
さらに、妻と呼ばれる女性であっても、女房として出仕している間に、夫は他の妻と同居し、いつのまにか離れ離れ(かれかれ)になり、妻でなくなることも多かった。境目のない離婚、とでもよべる事象である。
紫式部の娘・賢子が大出世したことは初めて知りました。母と共に彰子に仕えている間に故関白道兼の息子との間(正式の妻ではない)に女子をもうけた(27歳)が、同じ年に男児を出産した皇太子妃が亡くなったため、遺された親王の乳母になります。自分の子は実家で養育してもらう。親王が成長して後冷泉天皇となると三位を授与され、後宮女官のトップに立ちました。40歳で男児を産んだ時の相手は高階成章で、受領として富を蓄えていたので、自分の収入と合わせて豊かで安定した生活を享受したのだそうです。このことからもわかるように、身分の高い人の乳母になることは、中下級貴族女性が出世をする確実な道だったそうです。
私がいちばん気になっていたのは、一夫一婦制でなく、男が女のもとに通ってくる形の通い婚をしていた時代に、男に飽きられてしまった女がどうやって暮らしていったのか、という点です。そもそも、男が通っていた女の家というのは誰のもので、どうやって維持していたのか。
同居していない夫妻の場合、妻の生活経費はどのようであったのか。史料的に不明なことが多く、これはなかなか難しい問題である。兼家の訪れが間遠になった後、道綱母の家が荒れ放題になったことは先にみた。通いが頻繁な時は、兼家の従者や雑色たちが庭の手入れに励んでいたと思われる。
周防守後家は、(土地の)売却先を見つけられたから代価をもらって、どうにか生活できたのだろう。しかし、家屋敷を持っていても、不動産屋がない当時、売却できないで落ちぶれる姫君も多かった。『今昔物語集』には、垣根が破れ、家も荒れ放題になった寝殿に、姫君と乳母や二、三の女房・女童で生活している説話がいくつも見られる。姫君についている女房や乳母の才覚がここで活かされる。
一方で、正式な妻として認められている間に夫が死んだ場合の後家はそれなりに安泰だったようです。
妻が主要な財産を相続することは、この当時の慣例でもあった。寝殿などの建物を与えて、夫没後の日常生活を保障したのであろう。娘の場合は、もらった土地に建物をたてたりして活用しなければならない。そこで、力のある地位の高い夫が、必要となるのである。
また、上層貴族の娘には独自の財産もありました。
当時は、女性でも両親から財産を相続できた。おおざっぱな言い方をすれば、男女均等相続だった。しかも十世紀や十一世紀中ごろにかけては、前述のように、家屋を女性が相続することが多かった。だから、上層貴族女性では、結婚した妻でも、夫とは別の家司や従者を持っていた。
そこまで恵まれていない女性は、土地を売ってまとまった収入を得るか、実家に帰るか、女房として働きに出るかしか生きる道はなさそうです。土地もなく、両親が亡くなって帰る実家もなく、勤め先もみつからなかった場合はどうなるのでしょう。庶民の女性なら町で働く手もありますが、貴族の姫君として育った人には無理でしょうねえ。他人事ながらつらい。
以下、気になったところをアットランダムにメモ。
四位五位の中下級貴族の女子たちは、父や母の仕えている主の妻や娘たちに、童の時から仕えていたことがうかがえる。内裏に仕える女官たちは別として、貴族の家に仕える女房たちは、子どもを連れて出勤する場合も多かった。ゆえに、そのまま女童として使われたのであろう。
十世紀初めころに平仮名が成立し、「男=公=漢字、女=私=平仮名」としてはじまったジェンダーが、浸透し定着するのは、院政期である。
プロポーズの和歌の往復では、本人同士ではなく、お付きの女房や母親などが代作をすることが多かった。道綱母も道綱の歌の代作を熱心にしている。
結婚の申し込みやそれへの返答、さらに承諾は、娘の両親と男性、あるいは男性の両親が関わっていた。とりわけ母親は、娘の性愛の管理を行っていた。しかし、どの場合も、ていねいに見ていくと、最終的な承諾権は、娘の父親にあったことが確かめられる。
平安時代には年上の妻が多かったことがうかがえる。(中略)ただし、当時の貴族は一夫多妻妾制であったから、正式な妻を、二、三人持っていることが多かった。二番目の妻以降になると、はるかに年下の場合が多い。
結婚式が後世とちがう大きな点は、「婿取り」であること、宴会の費用は新婦の両親が持つこと、婿の両親は結婚式に参列もせず、ほとんど関与しないこと、などである。院政期になると、一、二ヶ月後に、新婚夫妻が夫の両親と対面する儀式ができるが、本書の時代では、妻が夫の両親と会う儀式はない。また、実体的にもさほど会っていない。嫁と姑の確執など、ほとんどなかったのである。
当時、両親と息子夫婦が、同じ屋敷に住むことは、一般的にはなかった。
中級以下の女房としての仕事を持っている女性が子を産んでも育てられず、子どもは相手の男の家に引き取られ、正妻や乳母によって、正妻の子どもと一緒に育てられる話は、『今昔物語』をはじめ、いくつも見られる。
年をとっていても元気であれば、それまで培ってきた経験と能力で親族や周囲の人に尊敬され、しっかりと生活できた。(中略)しかし、病気となると別問題である。
死ぬと穢が充満して家全体が穢れるから、重病になると親族以外の者は、家から追い出されることが多かった。
重病で追い出されたり、放置されたりする話は、なぜか都市の女性だけである。
お葬式をしてもらえるのは、貴族であっても、夫がおり、家がある場合であった。子どもたちがいても、母を顧みないこともあり、兄弟でも面倒をみてくれないことも多かった。
京都の庶民層の場合、なおさら、葬送儀式をしてもらえた女性たちの比率は少なかったにちがいない。もっとも、庶民層は永続的墓地は営まず、鳥部野などの葬地や、河原などに死体を遺棄する風習もあり、赤斑瘡や麻疹などの流行病が都市をおおうと、都市衛生が完備していない当時、河原はたちまちのうちに遺骸で埋まった。
平安朝 女性のライフサイクル (歴史文化ライブラリー) 作者:服藤早苗
出版社:吉川弘文館
ISBN:4642054545