2020年 11月 30日
旧訳聖書の世界 |
十九世紀の天才版画家ギュスターヴ・ドレによる72枚の版画が示す旧約聖書のエピソードを紹介し、書かれていることを読み解く本です。
神(ヤウエイ)によって天地が創造され、最初の人間であるアダムとイブが楽園を追放され、十代目の子孫ノアの時代に、ノア以外のすべての人間と生き物が神によって滅ぼされるまでが神話ファンタジー編とすれば、その後のノアの一族がユダヤ民族として侵略したりされたりの攻防を繰り返すその後の展開は一民族の年代記といった趣です。
旧約聖書は、あたかも最初からそのようなものとしてでき上がっていたかのように私たちの眼に映りますけれども、しかし旧約聖書といえども、魔法のように突然姿を現したものであるはずはなく、あくまでも、ある時期に、ある特定の意志や価値観を共有する特定の人たちが、発起し協働することによって創り出されたものです。今日的な言い方をすれば、それは、強靭なヴィジョンとコンセプトのもとに、圧倒的な統率力を持って進められた、何千年も前の、斬新で意欲的なクリエイティヴ・チームによる、一大プロジェクトの巨大な成果にほかなりません。最初の神話ファンタジーがよく出来ていたので、それに触発された人たちがその後の物語を書きついでいったという流れでしょうか。その時代のユダヤ民族が置かれた状況に応じて、時にはいさめ、時には励まし、常に自分たちを正当化する。皇国史観をもつ人たちが『古事記』や『日本書紀』の神話部分を事実と主張しているのとよく似ていますが、もっと巧く作ってあるから、大きな影響力をもつ宗教につながっていったんでしょうね。
キリスト教、ユダヤ教との関連ばかり考えていましたが、よく考えれば旧約聖書はイスラム教の原点でもあって、そうなると世界三大宗教のうち二つは旧約聖書から生まれていて、多くの国や国民が考え方や暮らし方に影響を受けているわけです。
それにしてもなあ、読めば読むほど絶望感にとらわれてしまう。紀元前の時代から人間ってなんも変わってないじゃないか。科学や医学が進歩したって人間そのものが変わらなかったら本当の進歩とは言えないと思うんだけど、どうやらそれは無理なことらしい。
大昔の人たちもそれをわかっていたから、少しでも悪い面をひきしめようと物語仕立てで戒めたり慰めたりしたんでしょうね。
でも、当時の人たちの価値観は今のそれとは相容れない部分が多い。わたし的に旧約聖書のダメダメなところは、人間を「すべての命を統べる者である」と定めたところ。万物の長であるから他の生物をどう扱ってもいいと思わせ、その結果がいまの地球の状態です。
エバをアダムの肋骨から創ったという当時の女性観を反映した記述がその後長い間(そして今でも)続く女性を男性の下におく価値観へとつながっている点も許せません。
作者は宗教をもたない人ならではの客観性で旧約聖書に描かれていることを観察していきます。納得できること、理不尽なこと、謎でしかないこと。同じ日本人としては作者の気持ちにとても共感するし、その後の世界史を知っている者の目には「あーあ」と思える記述が頻出します。
イスラエルの民をエジプトから引き連れてきたモーセは約束の地カナンを攻め落とし、自分たちの領土とします。そこにはすでに別の民族が暮らしてきたというのに、そういう人たちを全滅させることを神が許すくだりは、パレスチナの人々を追い出してイスラエルを建国した20世紀中盤の歴史をまざまざと思い出させます。
指令は極めて過激で、約束の地に住む民は殲滅し、そこで行われている異教やその習慣はことごとく、跡形もないように葬り去って、二度とそれを顧みないことなどを説き、これから、自分たちが建てたわけではない美しい街の大きな家い住み、自らが掘ったのではない井戸の水を飲み、腹いっぱいオリーブとブドウを食べられるのは主のおかげであり、そのことを感謝し、決して忘れないようにするために永遠に戒めを守れと命じます。先住民にしてみたら「冗談じゃないよ」って話で、当然ながら機会があれば取り戻そうとするでしょう。こうしたことは世界中のどこでも行われてきたことで珍しくもないけれど、そこに「神」を引きずりこむのはタチが悪い。
これを読むと、旧約聖書は、目先が効き抜け目がなく狡猾で好戦的で執拗で逃げ足が速い民族が生きてきた歴史をファンタジーをからめて「俺たちNo.1!」的に書き起こしたご都合主義な歴史書なんじゃないかと思えてしまう。そして新約聖書はそんな旧約聖書の二次創作。
兄を恐れるあまり、用心に用心を重ね、財産を二つに分け、家畜や従者や家族さえも先に行かせて、いつでも逃げられるように自分は後から行くあたり、いかにもヤコブの性格が表れていますし、日本人の感覚からは、なんだか小心者でずる賢くて身勝手な奴だなと、つい思ったりしますけれども、重要なことは、そんなヤコブが、アダム、ノア、アブラハム、イサクへと受け継がれてきた血筋の継承者であり、後に栄えるユダヤ民族の祖先となるということです。つまり神は、このような狡猾さや用心深さや忍耐強さや執着心などを、ある意味では評価しているともとれます。ここに描かれる神(ヤウェイ)はパワハラの権化です。理不尽に怒り、なんの理由もなく人間を試し酷い目に遭わせる。そんなに気に入らないなら最初から創らなければいいし、失敗だったと気づいた時点で滅亡させればいいのに。自分の失敗を認めたくないので責任を部下に負わせようとする上司にしか見えません。
こんなこと、信仰をもつ人に言ったら殴られそうですね。昔だったら魔女扱いされて火あぶりかも。
人間が、今よりもっと過酷で死の危険と隣り合わせだった自然環境や政治状況の中で生きていた時代には、そういう厳しく理不尽な日々は神の思し召しだと考える以外になかったんでしょうね。そうでもしないと絶望して働く気力をなくしたり、自暴自棄になって破壊的な方向に向かうから、共同体の存続が危うくなるので、それを抑止するものが必要だったんですね。
考えてみると、日本はほぼ単一の民族が小さな島国で農耕生活をおくり定住していたから、怖いものといったら天変地異がメインで、隣村の人たちが襲ってきて全村皆殺しなんて危険はめったになかったはず。だから日照りや水害から守ってもらうために八百万の神様にお祈りするくらいでよかった。
ところが、ヨーロッパや中近東など、数えきれない数の民族が地続きで暮らし、狩猟や牧畜のために移動していた地域では、いつなんどき他民族が襲ってきて全滅させられるかわからない危険と隣り合わせに生きていたわけで、神様にお願いして守ってもらおうなんて甘っちょろい考えは通用しない。
むしろ、神様が不幸を招きよせているのかもしれない。それならとにかく神様に怒られないよう、気に入ってもらえるよう生きるしかないわけで、生まれた土地の環境で宗教観が大きく変わるのも当然だなと改めて思った。
旧訳聖書の世界
作者:谷口江里也
挿絵:ギュスターヴ・ドレ
出版社:未知谷
ISBN:978-4896425017
by timeturner
| 2020-11-30 19:00
| 和書
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