2020年 10月 30日
指差す標識の事例 |
17世紀イングランド。クロムウェルが没し、王政復古によりチャールズ二世が王位についた。オランダで医学を学んでいたヴェネツィア人のコーラは、商人である父の命でロンドンに事務所に赴く。パートナーだったイングランド貴族の裏切りで事務所をのっとられ、命まで狙われたコーラは、オックスフォードの名士を頼るが、そこで大学教師の毒殺事件に遭遇する・・・。
最初の打ち合わせが1998年で、実際の刊行は2020年。なんと22年もかけて完成したという伝説の書。詳しい過程については訳者のひとりである日暮雅通さんがここに書いている。
「『薔薇の名前』とアガサ・クリスティの名作が融合したかのごとき、至高の傑作」と宣伝されていたけど、第一部は『『外科の夜明け』のような印象だった。医学の進歩はなんて遅々とした歩みで進んできたんだろうと改めて思うし、昔に生れなくてよかったとつくづく思う。
王政復古による新しい時代が始まったばかりのイングランドの人々の暮らしぶりや考え方が、まるで見てきたかのように詳細に語られるあたりは『薔薇の名前』的ではあるし、4人の「信頼できない語り手」がひとつの出来事をそれぞれ異なる方向から描いていて、どれが真実なのかわからないというひねり具合はクリスティ的だと思うけど、出てくる男どもがどいつもこいつもろくでなしでねえ。それに対して女性たち(サラ、アン、ウッドの母)は皆、時代の偏見に毒されない凛とした精神を保っているのが印象深い。政治・経済システムから外されているからこそ自らの理性と正義感を貫けるのだろう。
コーラ、プレストコット、ウォリスと、自分に都合のいいように歪められた手記が続き、いい加減いらいらしたところでウッドの手記が全てを明らかにしてくれる。まあ、彼にしたって自分が見聞きしたことと、他の三人の手記で知ったことしかわからないわけで、これが唯一無二の真実だとは言えない。サラに関する驚くべき話にしても、ウッドの目から見たことしか書かれていないのだから。
コーラの見るイングランドは、私たちがエリザベス朝以降の英国に抱いていたイメージとは大違いで、服装も食事のマナーも野蛮人同様、オックスフォードの学者たちも自らの地位の保全にだけ関心をもち学問とは縁の薄い連中だとまで言われている。
面白かったのは芝居を見にいったときの話。舞台ではシェイクスピアの『リア王』を演じているようなのだが、これが従来のフランスやイタリアにおける演劇とは異なることから散々な言われよう。昭和の人間がアングラ演劇を評したのとよく似ている。いつの時代も新しい試みは非難されるものなんだな。
それにしても、一筋縄ではいかない小説だった。読み終えてみると、ミステリーではなく、緻密に織り上げられた歴史小説を読んだという気分が残る。
4人の訳者の仕事はさすがに素晴らしく、17世紀イングランドという難しい時代を扱っているにも関わらず、読んでいて「え?!」と思うような訳し間違いなんかないし、語り手それぞれのキャラクターにあった、それでいて古風な味わいのある文体も納得のいくものだった。分担もぴったり合ってたんじゃないかな。
ほのかなユーモアを感じさせるコーラ、暴力的な狂信者プレストコット、傲慢で冷酷なウォリス、小心で偏屈なウッドのキャラクターがそれぞれの訳者に乗り移ったかのような訳文に感心した。
イギリスの文化や文学に造詣の深い宮脇さんを、いろいろ説明が必要な導入部にもってきたのもさすがと思わせる。日暮さんが担当したウォリスの部は、やたら割注が多くて読みにくいんだけど、これもウォリスの性格によく合っていた。池さんの日本語力もさすがの一言。
断トツに素晴らしかったのは東江さんの訳文だな。貴族らしくもったいぶった文章に、自分勝手で冷酷な性質をにじませた名訳。こういう日本語の文章は逆立ちしても書けないなあ。ただ、SirもLordもいっしょくたに「卿」としているのはいただけない。他の三人は分けてるんだけどね。刊行前に亡くなってしまったので直す機会がなかったのかと思うと悲しい。
ところで、時代背景を知ってからどこかで出てくるんじゃないかと思っていたピープスさん、なんとカメオ出演だった。
「(ホワイトホールで)食事に招かれてね。サンドイッチ卿夫妻と、ベネットが贔屓にしている従兄弟が一緒で、極く内輪の砕けた席だ。これが海軍本部勤めのえらく反っくり返った男で、自分が知りもしないことを際限もなく喋りまくる。まあ、元気がよくて、飾り気のない分、愛すべき男だ。名前は、確か……」
指差す標識の事例 上 (創元推理文庫)
指差す標識の事例 下 (創元推理文庫)
原題:An Instance of the Fingerpost
作者:イーアン・ペアーズ
訳者:池央耿、東江一紀、宮脇孝雄、日暮雅通
出版社:東京創元社
ISBN:978-4488267063、978-4488267070
by timeturner
| 2020-10-30 19:00
| 和書
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