2019年 08月 06日
晩夏(上・下) |
ウィーンで裕福な父とやさしい母に育てられた青年は、働かなくてもすむだけの財産を与えられ、自らの気持ちが向くままにさまざまな学問を追究していた。地形の形成に興味をもち、オーストリア・アルプス山麓を歩きまわっていたとき、雷雲を目にして丘の上の屋敷「薔薇の家」で雨宿りを乞う。屋敷の主は雨は降らないと断言したうえで招き入れた。青年の運命は、この時から大きく変わっていく・・・。
そもそもこの本の語り手はなんの苦労も挫折もしません。愛情にも財産にも恵まれた家庭に育ち、本人にも曲がったところがひとつもなく、尊敬すべき人々と知り合って自分を高め、愛する女性と相思相愛になり、みんなの祝福を受けて結婚します。
読者が学べるものは、青年や薔薇の家の主人の口を通して語られる作者自身の思索にこそあるのではないかと思いました。神の摂理に従って自然と調和して生きることの尊さ、科学や芸術の本質と科学者、芸術家の使命、人間同士の真摯な心の触れあいの美しさなど、この世に生きるうえで人間が心を向ける価値のあることすべてについて作者の思うところが披露されますが、丸ごと呑みこむ必要はなく、読者が考え判断し、深めていけばいいのではないかと思えます。
1857年、作者が52歳のときに出版された本ですから、雇用主と使用人の関係、男女の役割や家庭観など、現代人の目から見ると旧弊に感じられますが、当時の社会状況を考えれば自然なことですし、基本の部分に穏やかなヒューマニズムがあるので腹立たしくはなりませんでした。女性が自然科学も含めた学問を学ぶことの価値を認めているあたりは、当時の人としてはかなりリベラルだったんじゃないかと思います。
交通手段は馬車、通信手段は手紙だけだった時代の話ですが、未来についての考察で考えさせる部分がありました。ちょっと長いけど引用します。
もし、電光のような速度で全世界に情報を送ることができたら、そして、我々自身が非常な速度で短時間のうちに、地球のさまざまな場所に達することができたら、同じ速度で大きな荷物を輸送することができたら、どういうことになるでしょう。地球の財貨は容易に交易され、共同のものとなり、あらゆるものがあらゆる人々の手に入るようになるのではないでしょうか。現在は、小さな地方の町とその周辺は、そのままで、自分たちの持っているものや知っていることだけで、隔絶した状態を維持していられますが、間もなく、そうしていられなくなって、もっと普遍的な大きな波の中に引込まれるでしょう。そうなると、外との接触に対応するために、どんなに取るに足らない人でも、身に付けるべき知識や能力は今よりもはるかに大きくなります。知性と教養の発展によって、このような知識を最初に獲得した国は、富と権力と栄光を他の国に先んずることになり、他の国々を動揺させる結果にもなりかねません。しかし、これによって、精神の本質も変革されるのではありませんか。この影響が何よりも重要です。この分野における戦いは更につづけられるでしょう。それは新しい人間関係が始まったために生ずる戦いなのです。私の言った激動は更に激しさを加えるでしょう。どのくらいつづいて、どんな不幸が生じるか、それはわかりません。しかし、いずれはおさまって、静止する時が来るでしょう。物質の優位が覆されて、精神が勝利を占め、物質は精神が使用する素材としての力となるでしょう。精神が新たに人間的な勝利を得るのですから、歴史上かつてなかったような偉大な時代が訪れるでしょう。人類は幾千年の間には、さまざまな段階を経て、このようなところまで達すると思うのです。前半はまさに今現在の状況を予言していますが、後半の理想には遥かに及びませんし、人間性を考えたとき、果たして人類にそんなことができるのかどうか……。
全編を通して一人称の語りと周囲の人との会話で描かれているにも関わらず、主人公の名前と薔薇の家の主人の名前が下巻の最後の方になるまで明かされない趣向も面白い。ミステリー仕立てというわけではなく、ある特定の人の話ではなく、教養ある立派な老人と善良ですぐれた資質をもつ若者との関係をより抽象的に描きたかったのかな、という気がしました。会話も、現代小説のようなキャッチボール式のそれではなく、問いに対する答えがページをまたいで続くようなひとり語りに近い長口舌がほとんどです。
主人公が目にするあらゆるもの――自然の景観、庭、農場、屋敷、教会など――のようすがありえないくらい細々と描写され、森羅万象に関する博物学者の観察日記ではないかと思えるほどなのは、作者が作家であると同時に画家だったからではないかと解説にあって、なるほどと思いました。解説者はこうした「克明すぎる事物の描写」が読者を退屈させる禍いをなしていると書いていますが、私は穏やかで急がない語り口(リルケは「素晴しきアダージオ」と評したらしい)こそがこの作品の大いなる魅力の一つだと感じました。このへんは好みが分かれるのでしょうね。
この小説は、物静かな穏やかな人によって、ゆっくりと朗読されなければなりません。(リルケがアリーネ・ディートリヒシュタイン伯爵夫人に宛てた手紙より)事物に関する詳細な描写と反比例するように、人物描写は淡泊です。美しいとか善良なとか素晴らしいといった形容は使われていますが、そもそもこの本には悪人がひとりも出てこないし、不幸な人間も回顧談の中以外ではひとりも出てこないので、苦悩や憎しみが入り込む隙間がないのです。リアリティに欠けると批判する人もいるでしょうが、それは作者が意図してのことだと思うんですよね。作者が出版者である友人に宛てた手紙を読むとそれがよくわかります。
私はこの仕事で何かを「詩作する」のであって、「造り出す」のではありません。全体の状況と人間の性格は、私の考えでは、高貴な何ものかでなくてはなりません。それは読者を日常生活を超えた領域へと引き上げ、それによって、人間として、より清浄で、より偉大になったと感じとれる生き方が与えられるのです。立派でない読者であるわたしは、最初のうち、こんなとろとろした話はきっと最後まで読み通せないだろうと思ったのだけれど、読み進めるうちに「われを忘れ」て作中に引き込まれました。「自分のことを見つめ」られたかどうかはちょっと自信がないけれど。
そもそも、神様のお力が得られるなら、凡庸な人物とか悪人とかがやたらに出てくるような流行の物語など、書いて出版することはないと思うのです。立派な、思慮深い人物たちが、その心中を語れば、読者を高めてくれることでしょう。もっとも読者が、わが作中の人物ほど立派ではないとしての話ですが。読者がもし立派でないとすれば、読者は穏やかな輝きの中で、われを忘れ、自分のことを見つめることになるでしょう。
こういう小説が書けるのは、やはり満ちたりた暮らしをしていたからなのだろうと思ったのですが、巻末の年譜を見るとどうやらそうではないようです。子供の頃に父親を亡くして貧しい暮らしをしていたけれど、すぐれた資質を認められて教育を受けることができ、画家・作家として活躍しながら教育制度に関する公的な仕事も行っていました。社会的にはまずまず成功していたものの、初恋の女性とは結ばれず、その後結婚した相手とはうまくいっていなかったようです。養女にした娘は義理の母との折り合いが悪くて18歳のときに入水自殺、シュティフター自身は63歳のときに剃刀で頸部を切って亡くなりました。
どうやらシュティフターは薔薇の家の主人に自らを重ねあわせていたようです。ただし、薔薇の家の主人は「夏のなかった晩夏」を楽しむことができましたが、シュティフターには許されない幸福だったというのがいたましい。
こうして『晩夏』を執筆するための時間のみが、神の与えてくれたポエジーの世界に浸れる唯一至福の境であり、世の耐え難い不愉快な人や事件と決別して、自分が真に人間を取り戻せる貴重なひとときなのであった。ギッシングが『ヘンリ・ライクロフトの私記』を書いたのと同じような心境だったのかもしれませんね。
であるからこそ、激務に疲れた身体に鞭打って机に向かい、苦しみもしばらくは忘れ、心の命ずるままに、『気高く、真なるものの王国』を広めるため、「道義に反すること」のない世界を描くことに没頭したのである。
作者自身の手による挿絵のほかに、本文で述べられている記述に合致するような家具や美術品の写真が挿入されているのはこういう小説には珍しい趣向だと思います。作者自身の所有物だったり、視学官の仕事で出向いた先で目にした物だったりするそう。詳細に事物が描写されているだけに、それを実際に目で見られるのはとてもうれしい。
晩夏 上 (ちくま文庫)
晩夏 下 (ちくま文庫)
原題:Der Nachsommer
作者:アーダルベルト・シュティフター
訳者:藤村宏
出版社:筑摩書房
ISBN:4480039449、4480039457
by timeturner
| 2019-08-06 19:00
| 和書
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