2019年 07月 27日
最後のドラゴン |
ドイツのシュヴァルツヴァルトで生まれたドラゴンのグリシャは、子どもの頃に魔法をかけられ、ティーポットにされた。口のきけないティーポットとして100年以上をすごしたが、親切な心を持つ男のおかげで元の姿をとりもどし、ウィーンで仲間のドラゴンたちと暮らすようになる。11歳の少女マギーは父親とウィーンで暮らしていた。母親はマギーが幼いころに亡くなり、記憶はなにも残っていない。学校には行かず父親から教育を受けているマギーは、知識は蓄えていたが、友達をつくる方法を知らなかった。だが、ある晩、父親と一緒にいるときに、仲間同士できているグリシャと知りあい、友達になる・・・。
でも、確かに、滅びつつある古い時代のドラゴンには古都ウィーンがよく似合います。11歳の女の子が学校にも行かず、ホテルやカフェで自由に時を過ごしたり、街を歩きまわったりできる暮らしもウィーンならなじみます。
自分たちが本来属すべきグループに違和感を感じるふたりが惹かれあうのは当然です。
現代の都市に当り前のようにドラゴンが存在する世界という設定はもろファンタジーなんだし、魔法や魔法使い、魔法の猫も出てくるんだけど、いわゆるファンタジーみたいなことは起こらない。邪悪な魔法使いと戦ったりするけど、ハリー・ポッターみたいに呪文をかけあったり、殺し合ったりはしない。
ドラゴンたちは兵士の銃を恐れて自由な行動ができないし、役所の許可がなければ街の外に出ることもできない。国外なんてもってのほか。そして、大昔とはくらべものにならないほどのスピードであくせく暮らす人々には、そこにいるドラゴンが見えなくなっている。
これっていろんなことを連想しますよね。私が最初に考えたのは難民だけど、それ以外にも大都市でまわりの人たちから疎外され無視されているすべての生き物にあてはめることができます。
ウィーンに集結したドラゴンの数が多すぎたときに、金色の目をしたドラゴン以外は「処理」されたという話のところではナチスの収容所や人種差別を思い浮かべました。見ないふりをしようとした人たちのことも。
運よく金色の目だったドラゴンたちは、そうでないドラゴンたちがどうなったのか思い案じたけれど、やがて一年近くたつと、今の新しい生活のいい面を見るようにしたほうがいいと思うようになった。悪いことばかり考えてもしようがない。森では、まず生きつづけることを学んだ。ときにはいやなことを忘れるのが、生きる上で大切なのだ。この本には今の時代に生きる若者たちに向けて作者が言いたいことがたくさん出てきます。
今、聞いたことについてよく考えるには、まず忘れないことだ。覚えているかぎり、まちがいを正す方法を探すことができる。疎外された側のグリシャと疎外している側のマギーが、許せない現状を変えようと協力して動くことに大きな意味があったんだと思います。とはいえ、そのためにふたりが払った犠牲の大きさに、読み終えたとき心がシーンとしてしまいました。
「たしかにだれでも世界を見ることはできる。だが、立ちどまって、まちがいに気づく者だけが、世界を変えることができるのだ」
「あんなに大勢の人がみんな、目が見えないわけじゃないよね」マギーは猛烈な勢いでいったりきたりしているロンドンの人々を指さした。「グリシャが見えないなんてことがどうしてあるの?」
「見たくないからだよ。ぼくたちは、この世界に属していない。だれも、自分と関係のないことに時間を取られたくないからね」
ケイティ・ハーネットによるすてきな挿絵がたくさん挿入されているのも魅力です。
唯一、納得がいかなかったのは、レオポルドがドラゴンをウィーンに呼び寄せた理由。本の中ではグリシャが「助けが必要だったんだよ」と説明しています。なんのための助け? ドラゴンは戦争にしか使えないし、現代の戦争は武器の発達によってドラゴンを必要としないものになっているのに。「彼の魔法の力はかなり弱くなっていたので、もはやむかしのように必要とされなくなっていた。そのことを苦々しく思っていた男は、兵士たちにはできないことをやってみせてやろうと決意していた」からかな。自らの価値を証明するため? でも、結果的には価値が下落してるし――なんかすっきりしないんですよね。
ところで、話の本筋とは関係ないんだけど、最初のほうにこんなくだりがある。
グリシャは森を愛していた。森で出会う生き物たちのことも、ごく平凡な野ネズミから、尊敬を集めているクーガー(めったに見かけないが)にいたるまでいとおしんでいたし――ここで触れられている森はドイツの黒い森(シュバルツヴァルト)です。cougarを辞書でひくと「ピューマ, クーガー」って出てくる。日本ではクーガーよりピューマのほうが知られているから、ふつうだったらピューマって訳すと思うのだけれど、あえてクーガーにしたのには意味がありそう。というのも、ピューマは南北アメリカ大陸にしか棲息していないんですよね。ドラゴンが出てくるファンタジーだからピューマがドイツにいたっていいっちゃいいんだけど。
実は、『Madensky Square』の中にもcougarが出てくるんです。
I'd rather be served by a cougar than Nini in her present state.ニニが獰猛な気分でいることを表現する比喩だとしても、なぜオーストリアでは見ることができないcougar(ピューマ)?て思いました。ニニはハンガリー人だし。
で、調べてみると、ピューマというのはネコ科のなかでもライオンやトラのヒョウ亜科ではなく、イエネコを含むネコ亜科に属すんですって。ネコ亜科の中でヨーロッパに棲息するのはヨーロッパヤマネコとオオヤマネコで、ヨーロッパヤマネコは見た目イエネコに近くて獰猛さは感じられないけど、オオヤマネコはすらっと精悍でピューマに近い。どちらも森に棲んでいます。英語圏の人たちがcougarというときには、物語の舞台を考え、南米に棲息するピューマなのか、ヨーロッパの森に棲むネコ科の猛獣クーガーなのかを決めなくてはならないということですね。
気になった料理も。グリシャがティーポットからドラゴンに戻れたときにヤーコブが作ってくれたものです。
ヤーコブは、キャベツとジャガイモとリンゴをつぶしたものに温めたリンゴ酒をかけたものを作ってくれた。最初は、じゃがいもとキャベツのイギリス家庭料理Bubble and Squeakかなと思ったけど、ロンドンに住んでいるとはいえ、ヤーコブはハンガリー出身のユダヤ人だから、ハンガリー風あるいはユダヤ風の料理の可能性が高い。ラトケスと呼ばれるポテトパンケーキにはりんごソースをかけるそうなので、これの応用かな?
【誤植メモ】 p.183 5行目 だれだった⇒だれだって
最後のドラゴン
原題:The Language of Spells
作者:ガレット・ワイヤー
イラスト:ケイティ・ハーネット
訳者:三辺律子
出版社:あすなろ書房
ISBN:4751529382
by timeturner
| 2019-07-27 19:00
| 和書
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