2019年 07月 09日
モスクワの伯爵 |
1922年のモスクワ。貴族であるという理由で革命政府から無期限の軟禁刑を下されたロストフ伯爵は、モスクワの高級ホテル・メトロポールのスイートから屋根裏へと居を移した。ホテルを一歩出れば銃殺刑だ。そんな境遇でも伯爵は、身のまわりを精一杯整え、紳士の流儀を貫くことにした。こうして宿泊客や従業員たちとの友情を深めていったが・・・。
何年か前、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに長く載っていて、面白そうだったのでKindle版のサンプルを読んだのですが、のったりした進行かつ長大なページ数に怖れをなし、翻訳されてから読もうと決めました。
目論み通りに翻訳が出て、読んでみるとサンプルで感じたのんびり感は全編を流れていた。興味深い出来事が次々に起こるんですが、無駄なサスペンスではらはらさせたり、ページを繰る手を早めさせたりすることはなく、1ページ1ページをゆったり味わう喜びを感じさせてくれます。ユーモラスでありながら哀切で、ほのぼのしつつも痛烈な書きっぷりは匠の技。哲学、ロマンス、友情、父娘の絆……人生の泣き笑いをぎっしり詰め込んだ一冊でした。
ロシア革命以降、スターリンが死んでフルシチョフがトップの座につく直前までのソ連の国内状況が、(当然ながらアメリカ視点ではあるものの)かなり公平に生き生きと描かれていて勉強にもなります。最後のほう、スターリンの死後に開催された最高会議幹部会と閣僚会議の合同晩餐会でドラマチックに発表されたのが世界初の原子力発電所の稼働だというあたりは、その後のチェルノブイリの事故を予感させて背筋が寒くなりました。
32歳のときから32年間、ホテルに軟禁状態と聞くと巌窟王(『モンテ・クリスト伯』)を思い出しますが、あんなふうに大時代的な怨念はこれっぱかしもありません。なにしろ伯爵の信念は「自分の境遇の主人とならなければ、その人間は一生境遇の奴隷になる」ですから。
高級ホテルから一歩も出られない状況ではあるものの、いや、だからこそ、外の世界で生きのびることに必死の人々には見えないものが伯爵には見え、哲学的な思念をこらす余裕もあるのですよね。巧いシチュエーションを考えついたものだなあ。
レストランのマネジャー、料理長、裁縫師、コンシェルジュ、バーテンダーなど、主要な登場人物たちのキャラクターもユニークで魅力的です。悪役である支配人ですら不思議な吸引力を持っています。
金(ゴールド)を使った豪華でありながら明るいタッチのカバーは内容にぴったりで素敵なんですが、ただひとつ残念だったのは、ロシアンブルー種(灰色の毛に緑の目)のホテル猫・クトゥーゾフが金目の黒猫になっていたこと。デザイン的には黒いほうが引き締まるんでしょうが、ロシア原産の高貴な猫、ロシアンブルーを出してきたことには作者なりのこだわりがあったんじゃないかなあ。
【誤植メモ】 p.152 後ろから2-1行目 希望を断念する犬を非難する人はいないだろう⇒(前後の関係からみて)希望を断念しない犬を非難する人はいないだろう、では? p.267 10行目 アンナが⇒アンナに? p.401 5行目 パイナップルと⇒パイナップルを
モスクワの伯爵
原題:A Gentleman in Moscow
作者:エイモア・トールズ
訳者:宇佐川晶子
出版社:早川書房
ISBN:4152098600
by timeturner
| 2019-07-09 19:00
| 和書
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