2019年 02月 25日
カササギ殺人事件(上・下) |
1955年7月、ひとりの家政婦の葬儀がおこなわれた。準男爵サー・マグナスが暮らすパイ屋敷で働いていた家政婦は、主人夫妻が旅行中の朝に、鍵のかかった屋敷の階段の下で倒れていたのだ。掃除機のコードに足を引っかけての事故死と思われたが、その死は小さな村で暮らす人々に大きな変化をもたらすことになる・・・。
ところが、読み始めてびっくり。アガサ・クリスティを彷彿とさせる懐かしい語り口じゃないか。イギリスの田舎にある小さな村、尊大な地主、牧師、偏屈な庭師、屈折した老嬢、お節介に金棒引き……いやあ、揃ってるねえ。ナチス収容所の生き残りであるアティカス・ピュントはポワロを思わせる外国人探偵だし、秘書のフレイザーはヘイスティングスのよう。
背景が1950年代のイギリスなので、第二次世界大戦後の、開発が進んで自然が破壊されていく田舎の村の雰囲気も感じ取れる。
でも、それだけだったらパスティーシュが得意な作家でも書ける。このミステリーがすごいのはそこから大きく転換してからだ。上巻と下巻に分かれた本って、ほとんどは製本上あるいは営業上の理由によるもので、読者にとってはなんの益もないのだけれど、これに関しては一冊にまとまっている英語の原本より上下巻にわかれている日本語版のほうが効果的だったんじゃないかと思った。
細かく伏線を張りめぐらした上巻を読み終え、休む間ももどかしく下巻に手を出した私は、冒頭から「なんですとーっ?!」と叫んで頭の仕切り直しをさせられた。
ネタバレになるので詳しいことは書けないけれど、とにかく一筋縄ではいかない構成に度肝を抜かれたのよ。唯一不満だったのはC殺害の動機かな。
スーザンの口を借りて吐露される、ミステリー及び出版業界全般についての作者の知識や見解がまた面白くて説得力があり、この本の魅力のひとつになっている。ホロヴィッツは心の底からミステリーが好きで、ずっと真剣に関わり続けてきたんだろうなと思った。もっとも、コナン・ドイル財団の公式認定を受けた『シャーロック・ホームズ――絹の家』はやたら暗くて全く好きになれなかったんだけど。
作家がたまたまひねり出した名前が、その豊かな物語世界の象徴となることもめずらしくはない。もっとも有名な例は、シェリンフォード・ホームズとオーモンド・サッカーだ。もしもこんな名前のままだったら、もしもコナン・ドイルがもう一度だけ考えなおし、シャーロック・ホームズとジョン・ワトソン博士という名をひねり出してくれなかったら、はたしてこのふたりは世界じゅうでこんなにも成功を収めることができただろうか。名前の変更が書きこまれている原稿を、わたしはこの目で見たことがある。ペンをすっと動かし、横線で名前を消す。それだけで新たな文学の歴史が作られたのだ。ところで、典型的な英国のマナーハウスとして描かれているパイ屋敷には「下足室」という場所が出てくる。物語の初めのほうで医師のエミリーと庭師のブレントが裏口の扉のガラスを割って屋敷に入ると、まず下足室を通りぬけ、その先の廊下をたどると、二階の回廊へと続く階段のある正面の玄関ホールに出る。
屋内で靴を脱ぐ習慣のないイギリスでなぜ下足室?と一瞬思ったのだけど、田舎暮らしだったら靴が汚れる機会は多いし、乗馬や狩りで泥だらけになった乗馬靴のまま正面ホールから入っていく人はまずいないだろう。これまで読んだマナーハウスを舞台にした話で読んだ記憶があまりないのは(全くないとは言いきれない)、そこまで詳しく書く必要もないことと思われているからかも。
元になっている英語はなんだろうと気になり、試しにKindle版の試し読みをチェックしてみたら、幸い最初のほうだったので出ていた。boot roomだった。ググってみると今でも使われているし、一般家庭にもそういうスペースは設けられている。mudroomとも呼ばれている。靴だけでなく雨で濡れた傘やレインコートを置く場所にもなっているらしい。
そういえば、英米の絵本を読んでいると、玄関を入ったところに長靴やレインコートを置くスペースが描かれていることがけっこうあった。なるほど、あれか。
カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)
カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)
原題:Magpie murders
作者:アンソニー・ホロヴィッツ
訳者:山田蘭
出版社:東京創元社
ISBN:4488265073、4488265081
by timeturner
| 2019-02-25 19:00
| 和書
|
Comments(0)