2018年 02月 16日
史上最悪の英語政策 ウソだらけの「4技能」看板 |
大学入試の英語が4技能になると盛んに言われていますが、それってどういうこと? 今までとどう違うの?と思っていたので、読んでみました。タイトルからわかるように著者は4技能政策に反対の立場です。
4技能は、英語を「読む」「書く」「話す」「聞く」の4つです。えっ、そんなの昔からそうじゃないか?と思うでしょ? 中学高校のとき、英作文もあったし英文読解もあったし英会話もありましたよね。
実は現在の政策が推し進めているのは4つのうちひとつだけ、「話す」をもっとがんばらせようというもの。そのためにTOEICなど外部試験を大学入試に導入しようというのが主眼目です。
それでもTOEICで高い点数をとった一定数の学生が大学に入ってくるのなら、それでいいじゃないか。グローバル社会向きの人材がそれで確保されるのだから、と思う人がいるかもしれませんが、そのあたりを著者は安倍昭恵さんの礼をあげて説明しています。
昭恵さんはふだんから英語のスピーチを流暢にこなしているそうですが、晩餐会でトランプ氏と隣りあったときに「まったく英語をしゃべらなかった。ハローの一言も言えなかった」と馬鹿にされました。そんなことを言うトランプが問題なのは当然ですが、それにしてもどうしてそんなことになったのかを著者はこう考えています。
私は中高6年で英語ぺらぺらにはなりませんでしたが、同じ教育を受けた同窓生の中には英語ぺらぺらになって海外で働いている人たちもたくさんいます。要は、学校で基礎をしっかり叩き込むことが大切で、それさえあれば本人の望む方向に進めるのだと思う。私は読みたい本を英語で楽しめることで満足しています。
【誤植メモ】 p.43 表の上から5行目 大津起夫⇒大津由起夫 p.113 14行目 はまってしまわでしょう⇒はまってしまわないでしょう p.142 9行目 母国の場合⇒母国語の場合
史上最悪の英語政策?ウソだらけの「4技能」看板
作者:阿部公彦
出版社:ひつじ書房
ISBN:4894769123
4技能は、英語を「読む」「書く」「話す」「聞く」の4つです。えっ、そんなの昔からそうじゃないか?と思うでしょ? 中学高校のとき、英作文もあったし英文読解もあったし英会話もありましたよね。
実は現在の政策が推し進めているのは4つのうちひとつだけ、「話す」をもっとがんばらせようというもの。そのためにTOEICなど外部試験を大学入試に導入しようというのが主眼目です。
今回の有識者会議では、たとえば三木谷(浩史)さんや安河内(哲也)さんが「グローバル人材の育成は、何よりスピーキング力の向上だ」という、五十年以上前からとなえられてきた古いイデオロギーを振りかざしているようですが、実際にビジネスの現場に携わっている人なら痛いほどわかっているように、重要な案件ややり取りほど「文書」(紙媒体・磁気媒体含む)の形をとります。つまり、読み書きができなければビジネスなどできないのです。「パーティでわいわい」はそのあとにくるもの。ビジネスにかかわる方がそんなことを知らないわけがない。みなさん心の底では、「グローバル化=英語ぺらぺら」などという図式が嘘だとわかっている。ただ、英語市場のバブルを引き起こすには、こうしたキャッチフレーズが都合がいいとも思っている。所詮、一般人はその程度のものだと考えているのではないでしょうか。TOEICとかTOEFLと聞くと、権威のある公的機関のように思う人もいますが、実は民間の企業です。しかもTOEICはもともとアメリカの企業が従業員を雇う際に仕事の指示を理解できるだけの英語力があるかどうか(ほら移民社会だから)を判断するために採点するテストであって、その人の英語力を高めるシステムではありません。そのうえ、受ければ受けるほど慣れてコツをつかめ、点数を上げられるテストなのです。
まず、英語政策失敗の原因が偏ったオーラル中心主義にあるという事実を直視するべきです。TOEIC等の受験者が増加の一途をたどり、書店にも関連本があふれているというのに「英語ができない」のだとしたら、その理由は何か。明らかに行きすぎた文法・訳読の排除のせいではないでしょうか。オーラル中心主義のために英語のレベルはむしろ落ち、あらゆる学歴層がその被害に遭っています。そのため、将来、英語を必要とするであろう人たちの能力まで低下しつつあるのです。
より根本的な問題は、そもそも回数をたくさん受ければ点数が簡単にあがるような試験を入試として設定することで、どうして英語力があがるなどという理屈を立てられるのかということです。英検にしてもTOEFLにしてもTOEICにしても、あくまで英語力を測るための道具。診断テストです。受験生はTOEICを複数回受けてもいいことになっているので、受験料をいくらでも出せる富裕層の受験生は何度も受けてコツをつかめますが、経済的に恵まれない受験生はそのチャンスが与えられません。
それでもTOEICで高い点数をとった一定数の学生が大学に入ってくるのなら、それでいいじゃないか。グローバル社会向きの人材がそれで確保されるのだから、と思う人がいるかもしれませんが、そのあたりを著者は安倍昭恵さんの礼をあげて説明しています。
昭恵さんはふだんから英語のスピーチを流暢にこなしているそうですが、晩餐会でトランプ氏と隣りあったときに「まったく英語をしゃべらなかった。ハローの一言も言えなかった」と馬鹿にされました。そんなことを言うトランプが問題なのは当然ですが、それにしてもどうしてそんなことになったのかを著者はこう考えています。
二人の間で会話が成立するためには、お互いが相手に関心を持つ必要があります。このあたりは、今、言語学者が盛んに研究している領域ですが、円滑に会話を進めるためには、お互いが相手に対して「友好的な態度」を示す必要がある。この段階をへて、はじめてじっさいのやり取りがはじまるのです。その「友好的な態度」を示すのにもっとも有効だと言われているのは――一見単純な話ですが――相手に対する「問いかけ」です。なるほどなあ、と思いました。まあ、昭恵さんの場合は下手なことを言ってトランプを怒らせたら大変だという恐怖心で金縛りになっていたのかもしれませんが。
関心というものは、実は持てと言われて持てるものではありません。「おもしろい!」とか「へえ~」という気持ちはあくまで反応です。無理してかき立てられるものではない。ただ、関心を持つためには必ずしも相手を「好き」になる必要はありません。(中略)
関心を持つために「愛」はいらないということです。しかし、必ずと言っていいほど必要なものがある。知識です。相手について、最低限の情報を持たなければ、質問さえ思いつかない。
これらの方々はほんとうに相手について知ろうとしていたのでしょうか。遠藤(利明/国会議員)さんがパーティで「わいわい」できないと言っていますが、少しは相手について下調べをしたり、情報を集めたりしたのでしょうか。インタビューでの口ぶりからして、インフォーマルな場であれば、知らなくても「英語がしゃべれさえすればなんとかなるのに!」と信じていたふしがあります。
日本語ならそれでも何とかなったかもしれません。それは必ずしも遠藤さんの日本語能力が高いということではありません。日本語の話者同士というものは、自ずと文化を共有している。同じものを食べたり、同じ場所に行ったことがあったりする。同じ空気を呼吸しているから、自然と会話に入っていきやすい。しかし、異なる文化圏に属する人同士が会話を持つためには、まずは共通の土台を築く必要がある。そのためには、どんなことでもいい、相手にかかわることを知っておけば助けになる。
パーティでわいわいやっている現場で、うまく輪に入ってしゃべりたければ、まずは英語に関する知識をしっかり身につけ、どんな内容が出てきてもある程度柔軟に対応できるようにしておく必要がある。つまり、単なる「おしゃべり」の練習だけでは、とても対応できないのです。中学高校6年間勉強したのに英語がしゃべれない、というのはよく見聞きしますし、それに対して中学高校6年間、下手すると小中高12年間勉強したのに数学(あるいは化学、物理、歴史、国語)だってできないじゃないかという反論もよく目にします。
ということは逆にいえば、そんなに難しいインフォーマルな会話がうまくできなかったとしても「英語ができない」ということの証拠にはならないということです。インフォーマルな会話ほど難易度の高いものはない。ところが現状行われているのは、「その程度のことができないのは、英語教育がいけないせいだ!」などという話に持って行く、まったく珍妙なレトリックだと言うほかありません。なぜこんな政策を強引に進めようとするのか? それで得をするのは誰か? 多くの人が持っているコンプレックスを上手に刺激しているだけに、これは実に巧妙で悪質なやり方だと言えるでしょう。
私は中高6年で英語ぺらぺらにはなりませんでしたが、同じ教育を受けた同窓生の中には英語ぺらぺらになって海外で働いている人たちもたくさんいます。要は、学校で基礎をしっかり叩き込むことが大切で、それさえあれば本人の望む方向に進めるのだと思う。私は読みたい本を英語で楽しめることで満足しています。
シンガポールやインドの人が英語ができるのは必要だからです。英国の植民地だったシンガポールやインドでは、英語によって統治がされ、公用語が英語になった。だから、社会の中で地位を得たかったら、英語を身につける必要がある。現状の流れでいくと若者の英語力は今より低下するだろうけど、著者も書いているように日本というのは英語ができなくてもとりあえず困らずに生活できる国だから、できないと困る立場にいる少数の人たち以外は痛痒を感じないんじゃないかな。で、そのうちにその少数の人たちが「日本の英語教育はだめだ」と言い出して、別の政策が生まれるんでしょうね。(完全に他人事)
日本ではどうでしょう。遠藤さんや下村(博文/元文科省大臣)さんを見ればわかるように、英語のことなどわかってなくても国会議員になり、大臣になり、しかも何と英語の政策まで主導できる。それだけ日本では英語が不要だということです。不要だから身につかない。しかし、おかげで英語は、およそほとんどの欲しいものを手に入れてしまった日本人が、いまだに手に入れていない数少ない消費財として君臨することになるわけです。
「日本人は英語ができない」というコンプレックスを支えてきたのは日本人自身だと私は思っています。日本人は「英語ができない」と言われると、たしかに悔しいけど、どこか安心もするのです。「まだ、だめか」と焦る一方、同時に「もっとやらなきゃ」とも思う。そこにはとても安定した「向上心の構造」のようなものが見て取れます。これって、まさに『英子の森』で言ってたことだなあ。
【誤植メモ】 p.43 表の上から5行目 大津起夫⇒大津由起夫 p.113 14行目 はまってしまわでしょう⇒はまってしまわないでしょう p.142 9行目 母国の場合⇒母国語の場合
史上最悪の英語政策?ウソだらけの「4技能」看板
作者:阿部公彦
出版社:ひつじ書房
ISBN:4894769123
by timeturner
| 2018-02-16 19:00
| 和書
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