マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代 |
読んでいる間何度も「あれ?」と思い、「何かごまかされた気がする」と感じるのだけれど、作者の論の進め方が実に用意周到で、「読者はこう思うかもしれないが」と先回りして説明してくれるので、本当はその点については何の疑問も持っていなかったにもかかわらず、なんとなく納得して読み進めてしまう。
ときに「牽強付会」とか「我田引水」とか「詭弁」といった単語が頭に浮かんだりもするけれど、それもまた豊富な知識を散りばめた歴史的分析に目を眩まされて言いくるめられてしまう。
なんていうのかなあ。一行一行には全く誤謬はなく、完全に納得できるのだけれど、そうするために注意深く除かれ隠された事実があるような気がしてしまうのよね。
なんて書くと、内容がよくなかったふうに感じられるかもしれないけれど、その正反対で、すごく面白かった!
こういう評論もあるんだなあと驚いた。作者は上に書いたようなトリックを確信犯的に使っているのであって、最終章まで来るとそのへんを自ら暴露しているから笑ってしまった。いやはやまいりました。
ミステリー評論であると同時に歴史についての考え方を再考させる内容でもあって、わたし的にはとても楽しい掘り出し物でした。
メインでとりあげているのが大好きな『時の娘』とホームズ・シリーズというのも得点高し。
ポーのデュパン物とドイルのホームズ物は、どちらも探偵役と語り手を分けた役割分担の文体を使っています。が、作者は「視線の交錯関係がある。相互作用がある。これこそ探偵役と語り手をべつべつに設定する文体の最大の妙味であり、あえて言うなら最大の目的でもあるのだが、この妙味は、デュパンものではほとんど生かされていない」と言うのです。
デュパンと「私」は未分化というか、べつべつの人物という感じがしないのだ。その原因は何だろうか。私の見るところによれば、それはデュパンと「私」がつねに、かならず同一の場所にいることだった。なるほどなあ。最近読んでちょっと期待はずれだった『教会で死んだ男』を思い出しました。考えてみたら、あの中で私がきりっと締まってないと感じたのは、ヘイスティングズが常にポアロと一緒に行動し、語っている作品でした。
(中略)
このことは、ホームズ-ワトスンの文体にとって最良の結果をもらたした。彼らはめいめい外に出かけたからこそ、ひとりっきりの時間をもったからこそ、ふたたび下宿で顔を合わせたときに生彩を放つのだ。そこでは彼らの「見る」「見られる」の関係はよりいっそう複雑になり、性格のちがいは際立ち、そのことによって事件そのものの様相も一段と奥ふかさを加えるだろう。彼らの持ち寄った情報がふたりの目のフィルターを通してさらに厳密かつ公平に判定されることの利点はいうまでもない。こういう長所が渾然一体となって、あの独特のおもしろさ、読者にページをめくらせる推進力が生まれるのだった。
『薔薇の名前』と『わたしの名は赤』にも多くのページをさいています。すごく面白そうに書いてある。どちらも読まなくてはと思いながら未読だったのですが、いま、猛烈に読みたい気持ちになっています。
作者は小説家でもあって、すごくたくさんの作品を書いているようなんですが一冊も読んだことありませんでした。美術や歴史をテーマにしたものが多いそうなので好みかもしれない。こちらも読んでみるつもりです。
【誤植メモ】 p.251 14行目 遠いの国の⇒遠い国の p.253 2行目 市民人たちの⇒市民たちの? p.256 12行目 左下からに右上へ⇒左下から右上に
マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代 (角川文庫)
作者:門井慶喜
出版社:KADOKAWA
ISBN:4041047498