2017年 05月 15日
人はなぜ物語を求めるのか |
人は人生に起こる様々なことに意味づけし、物語として認識することなしには生きられない。それはどうしてなのか? その仕組みとは?
物語論(ナラトロジー)なんていう研究分野があるんですね。タイトルだけ見て「人はなぜ小説を読むのか」について書かれたエッセイ的な内容だろうと思ったのですが、全く違いました。
私たち人間が生きづらいのはなぜかを解き明かしてくれる哲学的、心理学的な本です。とはいえ、ものすごく平明でわかりやすい。
本を読んだときに「わかった感」があるかないかでその本に対する評価を決めるようなところが私にはありますが、この「わかった感」というのはとても危険なものになる可能性もはらんでいることがよくわかりました(ほんとか?)。
「人間を含む動物は、ラッキーなことよりアンラッキーなことを強く記憶に刻みますし、チャンスを期待する以上にリスクを恐れて生きています。つまり僕たちは、よくないことに注意が偏る生き物だということです」という指摘には、なるほどと大きくうなずきました。なにしろ、一度ころんで痛い目に遭っただけで、その後ずっと雨の日に外を歩くたびにびくびくしちゃうんですから。生き物がサバイバルするために絶対必要な本能なんでしょうけど、強くなりすぎると恐れのために何もできなくなる。気をつけなくっちゃ。これからは雨が降るたびに「今日もころばなかった」と自分に暗示をかけようかな(^^;)。
タイトルから私が想像した小説の話に触れている部分もあって、このあたりは自分が小説を読むときの心理状態を覗き見るようで面白かった。小説の中ではほとんどの場合「非常時」が訪れるのですが、このとき読者は無意識(あるいは意識的)に「このあとどう決着をつけるのだろう」と予測するのだそうです。ミステリーの場合はまさにそうですが、それ以外の場合もしかり。だから、決着らしい決着がつかずに終わると取り残されたような気がしたり、わけがわかんない!と腹を立てたりするわけですが、とにかくこの予測は「意識的な演算というよりむしろほどんど『情動』のような反応であり、しないようにすることができないものと考えたほうが実態に即して」いるんだそうです。
そしてさらに、「このあとどう決着をつけるのだろう」という問において求められているものは、必ずしも「こうやって決着をつけた」という情報だけではなく、自ら体験したい気持ちを持っているんですって。そうか、だから、あらすじだけみたいなそっけない小説を読むと不満を覚えるんですね。
面白いなあと思ったのは、作者の『変身』の読み方。千野さんによるとカフカの『変身』は、「突然一家の厄介ものになってしまったグレーゴルのストーリー」のように見せかけておいて、実は「突然稼ぎ頭が厄介ものになってしまった一家のストーリー」だというのです。うわあ、そうだったのか!
それはともかく、この本が若者向けの《ちくまプリマー文庫》から出ているのはなぜかというと、自意識が芽生え、世の中が見えてきた若者たち、どうして生きることはこんなに苦しくつらいのだろうと考えている若者たちに、「こんなふうに考えてごらん。少しはらくになれるよ」と教えるためなんだと思う。もちろん、大人にも有効だけど、この本が必要な大人はこういう本は読まない気がするのはつらいところです。
【誤植メモ】 p.197 5行目 状況がこじれたるのは⇒状況がこじれるのは
人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)
作者:千野帽子
出版社:筑摩書房
ISBN:4480689796
物語論(ナラトロジー)なんていう研究分野があるんですね。タイトルだけ見て「人はなぜ小説を読むのか」について書かれたエッセイ的な内容だろうと思ったのですが、全く違いました。
私たち人間が生きづらいのはなぜかを解き明かしてくれる哲学的、心理学的な本です。とはいえ、ものすごく平明でわかりやすい。
本を読んだときに「わかった感」があるかないかでその本に対する評価を決めるようなところが私にはありますが、この「わかった感」というのはとても危険なものになる可能性もはらんでいることがよくわかりました(ほんとか?)。
「わかった」には、麻薬的な気持よさがあるのです。繰り返しますが、「わかる」とは、知性というよりは感情の問題だからです。逆に、自分が不本意な状況にあるのは自分のせいだと思ってしまう傾向の人も、これはこれで不愉快ではあるものの「わかった感」を得て安心できるのだそう。なるほど、なんでもかんでも自分のせいだと思いこむ人っていますよね。
自分は知っていると思うと、安心感が生まれます。たとえ、「自分が不本意な状況にあるのは、特定の人たちに有利なふうに世の中が設計されているからだ」というような、怒りを掻きたてる説明でも、ないよりは「安心」なのです。
優遇されている特定の人たちは、要するに「敵」です。そこに自分が含まれない集団であればなんでも該当します。貴族、富裕な資本家、白人、ユダヤ人、先進諸国、男、女、子ども、老人、既婚者、子持ち、子なし、美人、イケメン、生活保護受給者、専業主婦……。
「わからない」から逃れたいと思うと、そういうストーリーにすがって狂信的な宗教に入信することもあれば、世論操作の得意な好戦的な政治家に投票することもあります。
「人間を含む動物は、ラッキーなことよりアンラッキーなことを強く記憶に刻みますし、チャンスを期待する以上にリスクを恐れて生きています。つまり僕たちは、よくないことに注意が偏る生き物だということです」という指摘には、なるほどと大きくうなずきました。なにしろ、一度ころんで痛い目に遭っただけで、その後ずっと雨の日に外を歩くたびにびくびくしちゃうんですから。生き物がサバイバルするために絶対必要な本能なんでしょうけど、強くなりすぎると恐れのために何もできなくなる。気をつけなくっちゃ。これからは雨が降るたびに「今日もころばなかった」と自分に暗示をかけようかな(^^;)。
タイトルから私が想像した小説の話に触れている部分もあって、このあたりは自分が小説を読むときの心理状態を覗き見るようで面白かった。小説の中ではほとんどの場合「非常時」が訪れるのですが、このとき読者は無意識(あるいは意識的)に「このあとどう決着をつけるのだろう」と予測するのだそうです。ミステリーの場合はまさにそうですが、それ以外の場合もしかり。だから、決着らしい決着がつかずに終わると取り残されたような気がしたり、わけがわかんない!と腹を立てたりするわけですが、とにかくこの予測は「意識的な演算というよりむしろほどんど『情動』のような反応であり、しないようにすることができないものと考えたほうが実態に即して」いるんだそうです。
そしてさらに、「このあとどう決着をつけるのだろう」という問において求められているものは、必ずしも「こうやって決着をつけた」という情報だけではなく、自ら体験したい気持ちを持っているんですって。そうか、だから、あらすじだけみたいなそっけない小説を読むと不満を覚えるんですね。
面白いなあと思ったのは、作者の『変身』の読み方。千野さんによるとカフカの『変身』は、「突然一家の厄介ものになってしまったグレーゴルのストーリー」のように見せかけておいて、実は「突然稼ぎ頭が厄介ものになってしまった一家のストーリー」だというのです。うわあ、そうだったのか!
それはともかく、この本が若者向けの《ちくまプリマー文庫》から出ているのはなぜかというと、自意識が芽生え、世の中が見えてきた若者たち、どうして生きることはこんなに苦しくつらいのだろうと考えている若者たちに、「こんなふうに考えてごらん。少しはらくになれるよ」と教えるためなんだと思う。もちろん、大人にも有効だけど、この本が必要な大人はこういう本は読まない気がするのはつらいところです。
言われてみれば自分は、自覚せぬまま人生や他人にこちらの皮算用的ストーリーを期待し、要求し、期待したストーリーを世界がどれくらい満たしてくれるのか、一喜一憂、いや一喜百憂くらいのペースで採点してきたともいえるなあ、と思ったわけです。自分が苦しいのは無自覚なストーリー作りのせいだったのか。なるほどね、と。初めて知ることが多い、というよりこういうふうに説明されたのは初めてなので、読み終えてもまだ全体をきちんと把握できた感じがしないし、消化もできていません。でも、読んでる間ずっと、ふだんはだれている脳が活性化しているような感覚があって気持ちよかった。もっとも、実際には何もわかってなかったり、ごまかされたりしているのかもしれません。作者も初めのほうでこう警告していますから。
人は僕の欲求を満たすために存在・行動しているわけではありません。また僕も人の欲求を満たすために存在・行動しているわけではありません。ですから、人が僕の欲するとおりに行動しないのは当然のことだし、また僕が人の欲するとおりに行動しないのも当然のことなのです。
人間は他の動物と違って、目的を持って自分の環境を変えてきました。そのせいかどうかはわかりませんが、「自分は自分の意志に従って環境を変えることができるし、そうするべきである」(must)という一般論に、しばしばとらわれてしまいます。いわば「コントロール幻想」です。
自分のストーリーの主語を他者(たとえば「あの人は(世の中は)わかってくれない」ではなく、一人称単数(「僕はこうする」)にすることが、ストーリー的な苦境から脱する第一歩なのです。
僕たち人間は日常、世界をストーリー形式で認知しています。そのとき、僕たちはストーリーの語り手であると同時に読者であり、登場人物でもあるのです。物語る動物としては、自分や他人のストーリーに押しつぶされたり、自分のストーリーで人を押しつぶしたりせずに、生きていきたいものです。
説明とは、そのままでは未知にとどまってしまうものを分解して、自分がすでに知っているものの集合体へと帰着させてしまうということです。こういったわけで、「わか(った気にな)る」ことはときに、お手軽な説明とセットであることがあるので要注意です。一ヵ所、よくわからなかったところ。
本書の説明も、「滑らかでわかりやすい」と感じる部分があったら、どうぞ用心してください。
たいていのばあい、人間は本来操作できる範囲を超えたところまで、自分で操作できるはずだと思ってしまっている。そうすると、しょっちゅう、いろんなものにたいして操作を試みる結果、操作の試みの失敗率が下がります。ストーリー的に言えば、多くのものを操作しようとすればするほど、うまくいかないできごとの数が増す、ということになるわけです。数学が苦手なので確率論とかまるでわからないのですが、失敗率は「上がる」んじゃないかなあ……。
【誤植メモ】 p.197 5行目 状況がこじれたるのは⇒状況がこじれるのは
人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)
作者:千野帽子
出版社:筑摩書房
ISBN:4480689796
by timeturner
| 2017-05-15 19:00
| 和書
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