2017年 03月 22日
漱石とホームズのロンドン |
19世紀、ヴィクトリア朝末期にロンドン留学をした漱石と、そのロンドンを舞台に活躍したホームズ。格差社会、南北問題、戦争……時代の「峠」に立っていた二人の接点をみつけ、それぞれの目に映ったロンドンと世界を考える。
いいところに目をつけましたねえ。漱石とホームズを合わせる試みは『黄色い下宿人』や『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』など、これまでフィクション、ノンフィクションともにたくさんあったと思うのですが、この本みたいなスタンスで取り上げたのは初めてだと思うし、とても興味深く読めました。
『吾輩はロンドンである』でも感じましたが、著者は漱石が好きでたまらないんですよね。その思いが伝わってくるから、かなり牽強付会と思える説でもいやな感じがしない。まあ、時には「いくらなんでも」と苦笑してしまうところもあるんですが、でも、心のどこかで「ひょっとしたら」とうなずきたい気持ちにもなる。
漱石が移り住んだ五つ(最初のひとつは下宿というよりホテルですが)の下宿のロケーションから当時のロンドンを見るというのは、大成功だったと思います。ここにも書かれているように、一言でロンドンと言っても住む場所でまったく違う人と暮らしなんですもんね。
シャーロック・ホームズは時系列で読んでいないし、真剣にも読んでいないので、何度か読んでいてもすぐに話の展開を忘れてしまうんですが、書かれた時代によって次第に20世紀的なものが採り入れられていることをこの本では具体的な例を出して教えてくれていて面白かった。
もうひとつ疑問に感じたのは、「ホームズは庶民の味方である。富に対して、本質的に反感がある」というところ。確かに金銭的なことには恬淡としてはいるけれど、富に対して本質的に反感があるとは思わないなあ。貴族や地主にそれなりの敬意を払っているし、日常生活でも彼なりに贅沢な暮らしをしている。庶民を見下すことはしないけれど、その庶民と自分が同列の人間だとは思っていないと思う。まあ、実際のところは作者のドイルに訊かなければわからないことですけどね。
最後の章の、漱石、ホームズと戦争との関わりについて分析する章は、なるほど、そういう見方があったかと膝をうちたくなるような内容で、すごく納得しました。漱石の偉大さも再認識できた。
漱石とホームズのロンドン: 文豪と名探偵 百年の物語
作者:多胡吉郎
出版社:現代書館
ISBN:476845786X
いいところに目をつけましたねえ。漱石とホームズを合わせる試みは『黄色い下宿人』や『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』など、これまでフィクション、ノンフィクションともにたくさんあったと思うのですが、この本みたいなスタンスで取り上げたのは初めてだと思うし、とても興味深く読めました。
『吾輩はロンドンである』でも感じましたが、著者は漱石が好きでたまらないんですよね。その思いが伝わってくるから、かなり牽強付会と思える説でもいやな感じがしない。まあ、時には「いくらなんでも」と苦笑してしまうところもあるんですが、でも、心のどこかで「ひょっとしたら」とうなずきたい気持ちにもなる。
漱石が移り住んだ五つ(最初のひとつは下宿というよりホテルですが)の下宿のロケーションから当時のロンドンを見るというのは、大成功だったと思います。ここにも書かれているように、一言でロンドンと言っても住む場所でまったく違う人と暮らしなんですもんね。
シャーロック・ホームズは時系列で読んでいないし、真剣にも読んでいないので、何度か読んでいてもすぐに話の展開を忘れてしまうんですが、書かれた時代によって次第に20世紀的なものが採り入れられていることをこの本では具体的な例を出して教えてくれていて面白かった。
初めてロンドンに電灯が出現したのは1858年、ウェストミンスター・ブリッジであったというが、町に本格的に電灯が登場するのは、1870年代からである。初期には炭素電極によるアーク灯だったが、エディソンの発明以後、次第に白熱灯に変わっていく。ただ、「三人の大学生」でオックスブリッジらしき大学のカレッジで教授の部屋に電灯があることを描写するシーンをさして、「このように学内にすでに電灯が備えつけられている事実自体が、このカレッジがいかに立派な名門大学であるか、読者に鮮やかな印象を与えたはずである」と書いてあるところでは、そうかなあと首をかしげました。『大学のドンたち』を読んだ印象からしても、オックスブリッジのように伝統を重んじる大学では、そうそう簡単に文明の利器を導入したりしないと思うんですよね。ガス灯どころか蝋燭のほうがいいと思っていそう。新しい文明の利器が「立派」と考えるのは現代の日本人的な気がします。むしろこの部分はそのカレッジが歴史の浅い新興カレッジであることを示しているんじゃないかと思いました。
ガス灯と電灯が混在しつつ、ゆっくりとその比重を前者から後者に移しつつある時代だったのである。言うなれば、ガス灯は19世紀の、そして電灯は20世紀ロンドンの象徴でもあった。
馬車が止まった家は、原作の英語では「the third house in a new terrace」と記されているが、この「terrace」とは、瀟洒な「テラス」つきの家をいう言葉ではない。英国特有の表現だが、同じスタイルの家がひと続きに並ぶ団地風の集合住宅の群のことである。いかにも新興地の顔である。
もうひとつ疑問に感じたのは、「ホームズは庶民の味方である。富に対して、本質的に反感がある」というところ。確かに金銭的なことには恬淡としてはいるけれど、富に対して本質的に反感があるとは思わないなあ。貴族や地主にそれなりの敬意を払っているし、日常生活でも彼なりに贅沢な暮らしをしている。庶民を見下すことはしないけれど、その庶民と自分が同列の人間だとは思っていないと思う。まあ、実際のところは作者のドイルに訊かなければわからないことですけどね。
最後の章の、漱石、ホームズと戦争との関わりについて分析する章は、なるほど、そういう見方があったかと膝をうちたくなるような内容で、すごく納得しました。漱石の偉大さも再認識できた。
殺人事件というものも、もとは悪人の個性が引き起こす。ホームズ物語の妙味は、さまざまな個人的因果にからんで行われた犯罪を、ホームズが個人の力だけを頼りに捜査し、推理し、警察組織もなしえなかった鮮やかな解決に導く点にある。悪の個性に対して善の個性が挑み、勝利をとげるところに、読者は快哉を叫ぶ。【誤植メモ】 p.16 5行目 移ことになる⇒移ることになる
だが、戦争による大量殺人は、正義非正義の境界を不鮮明にしたばかりでなく、人殺しにつきまとってきた「個性」をも吹き飛ばしてしまった。近代文明が肥大化してすべてがマスで動き、戦争が人々の個性を抹殺し、無惨に屍を地に晒すような時代に、ホームズという天才的個性が活躍し、登場する余地はなくなってしまったのである。
ホームズ物語の幕引きは、個の終焉を意味する。個が封殺されて、ホームズ物語は息をする場を喪失する。個の封殺と、ホームズ物語の終焉と、戦争での大量死と、それらは、輪を描くようにつながっている。
漱石とホームズのロンドン: 文豪と名探偵 百年の物語
作者:多胡吉郎
出版社:現代書館
ISBN:476845786X
by timeturner
| 2017-03-22 19:00
| 和書
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