2011年 12月 24日
大津のかくれ里 その1 |
顔見世に誘ってくれた友人とは前から滋賀を旅行しようと言っていたのですが、今回ようやく、一日だけですが行ってみることにしました。白洲正子さんご推奨の「かくれ里」を訪ねようというのですが、調べてみると冬の滋賀県はかなり寒くなるようで、特に湖北のほうは福井県との県境にあたるので雪が深いらしい。折から連休の西日本、日本海側は荒れ模様との天気予報も出たので、今回は無難に大津周辺だけを回ることにしました。
まずは下準備とびわこビジターズビューローのサイトに出ている白洲正子の愛した近江で大津付近の行きたいスポットをピックアップし、公共交通機関で一日で回れコースをメールで問い合わせました。
金曜にメールを出し、土日をはさんで月曜に戻ってきた返事はこうでした。
それでもメールで問い合わせをしている相手に電話番号だけ知らせるってどうなの? ひょっとしてホームページも問い合わせ先メールアドレスもないところなのかしら、と善意に解釈して検索してみたら、なんだ、ちゃんとあるじゃない。なのに長距離電話をかけて聞けと答えたわけね。
私も今年の3月まで同じような仕事をしていたので、相手の怠慢というか気配りのなさが腹にすえかね、大津市びわ湖大津観光協会に同じ内容の問い合わせをメールするときによけいなひとこと(よそに回すにしても電話だけでなくHPのURLやメールアドレスも教えてくださったら親切ですのにね。こちらからはメールで問い合わせているんですから)を付け加えてしまい、さらにはそれをびわこビジターズビューローにC.C.で送るという大人げない対応を。あっはっは。
そのせいかどうか、今回はいたれりつくせりの返事があり、送られてきたパンフレットにはたくさんの付箋が貼られていて親切きわまりない対応でした。大津の絵葉書まで同封されてた。
京都から新快速で石山へ。いったん駅から出て少し歩くとすぐに京阪の石山駅です。ここで湖都古都・おおつ1dayきっぷ(500円)に日付スタンプを押してもらいます。これで今日一日京阪石山坂本線と京津線に乗り放題。それだけでも元がとれるのに主な観光名所やお寺、さらにはお昼に行くつもりの鶴喜蕎麦でも10%割引になるうえ、比叡山に登る坂本ケーブルは20%引きになります。これは絶対に買わなくては損。
ホームに停車している列車を見てびっくり。車体一面に機関車トーマスが! 先日の忍野八海行きのバスより徹底してます。しかしトーマスの著作権者は儲かってるなあ。私たちが乗る列車がホームに入ってくるとさらにびっくりしました。2両編成の1両目がブルー、2両目がピンクという色合わせにも驚いたのですが、停まってみると外側も内側も「けいおん!」だらけのアニメ列車だったのです。
乗ってくるのはカメラを持った若者だらけで、みんな座席に腰もおろさず車内をくまなく撮影しています。明らかにこのために来ていると思われる人たちばかり。旅行目的で乗ってたのなんて、私たちと地元民らしきおばさんだけじゃないかな。外国人もせっせと写真を撮っていました。日本のアニメファンの人多いもんね。
ようやく電車が動き出し、まずは最初の目的地、石山寺に。平安時代に宮廷の女人たちがこの寺の観音堂に参籠し、読経しながら一夜を過ごすのが流行ったのだそうで、紫式部はここで「源氏物語」の想を練ったと言われています。清少納言、和泉式部、藤原道綱の母、菅原孝標の女などもこの寺のことを日記や随筆に記していたとか。もっと後の時代になると、松尾芭蕉や島崎藤村も訪れているんですって。友人が見た映画「源氏物語」にはここで撮影されたシーンがあったそうです。境内には紫式部の像や不気味なロボットによる説明コーナーなどもありましたが、『源氏物語』をきちんと読んだことのない私には猫に小判。ふーん、としか思えなかった。
それよりも印象的だったのは石。名前が石山寺というだけあって本堂が巨大な硅灰石(石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したもの)の上に立っているんです。この石、国の天然記念物にもなっていますが、実際に見ると本当に魁偉な様相。これを見た昔の人が神仏の力を感じたのも無理はありません。
また、自然の地勢を利用した広い境内には趣のあるお堂や社が樹木に囲まれてポツポツと建っていて、平安貴族の女性たちがここに篭ることを好んだ気持もよくわかります。俗世を離れ、鳥の声と水が流れる音だけに囲まれてこの庭を散策していると癒されますものね。坂を登ったところには映画にも出てきたという月見亭があり、ここから瀬田川の流れがのぞめます。はるか向こうには琵琶湖が。
この寺は花の寺とも呼ばれていて、桜はもちろん梅林や菖蒲園、それに参道に植えられた樹齢約200年のキリシマツツジで有名らしい。紅葉の時期もよさそうですが、残念ながら今回はそのいずれにもお目にかかれませんでした。またぜひ季節を改めて訪れたいものです。
次は三井寺。桜並木に囲まれた疎水沿いに歩いていくと着きます。この疎水のあたりはとても素敵で、ぜひまた桜の季節に来たいと思いました。このあたりだと人混みもそれほどひどくないそうです。
三井寺は近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる寺で、天智天皇の近江大津京ゆかりの古刹です。金堂には身丈三寸二分の弥勒菩薩が祀られているのですが、残念ながら秘仏なので見ることができません。
ここも石山寺に負けず劣らず広い寺で、私たちが入った入口からかなりの石段を登ってようやく西国十四番札所観音堂に着き、やれやれと思って案内図をよく見ると、このあたりは寺の敷地のほんの一部で、まだまだもっと横のほうに広がっていて重要文化財の建物がごろごろ建っているのでした。知らずに階段を降りて帰ってしまうところだった。
ここの一切経蔵は室町初期の建物を山口県・国清寺から移築したものだそうですが、屋根のカーブが実に優美で美しく、堂内の装飾も華麗です。本堂は桃山時代を代表する名建築だそうで、例の秘仏がまつられています。
ほかに弁慶が比叡山まで引き摺っていったものの、鐘が「帰りたい」と鳴ったので怒って谷底に投げ捨てたという言い伝えのある引き摺り鐘(投げ捨てたものをどうやってここまで戻したのか書いてない)や、天智・天武・持統の三天皇が産湯に用いたという霊泉「閼伽井屋」、三井の晩鐘を見て仁王門へ。ああ、こっちが本来の入口だったんですね。さっき入った入口よりずっと立派でした。
ここで同行の友人の大津在住の友人登場。西教寺に車で連れていってくださることになりました。西教寺は日吉大社から少し歩くので比叡山まで行くとすると無理かなあとあきらめていたのでありがたい。
西教寺は聖徳太子が恩師のために創建したと伝えられる寺で、久しく荒廃していたものを慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としたのだそうです。それだからか、門を入ると道の両側に全国各地の寺院専用の宿坊が並んでいます。全国に約四百余りあるという末寺のお坊さんたちがここに滞在して念仏三昧の日々を送るのでしょうか。
このお寺の本堂に近づくと、一定の間隔をおいて鉦を鳴らす音が聞こえてくるのですが、これは白洲正子さんの『近江山河抄』にこう書かれています。
本堂の前庭を囲むように立派な石垣があり、その手前に明知光秀とその妻の墓があります。さらに石垣の手前にずらっと二十五体の石で彫られた菩薩像が並んでいるのですが、これについて上記の『近江山河抄』にこう記されています。
このあと拝観料を払って本堂、客殿(豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿を寄進したもので、襖や壁、腰障子に素晴らしくダイナミックな狩野派の絵が描かれています)の中を見学していたら、最後のほうになって廊下の端に二十五体が二列に並べられていました。確かに表にあったのとは段違いの、とても趣のある表情の菩薩たちでした。中にはかなり風化して細かい部分が消えてしまっているものもあったので、外に出しっぱなしにしておいたらいつかダメになってしまうでしょう。本来の場所で見られないのは残念ですが、納得しました。
ところで、総門を入ってすぐに宿坊のひとつの門の上に猿の置物がのっているのをみかけました。その宿坊だけの趣向なのかと思っていたのですが、資料館に写真がずらっと並べられ、猿の由来が書かれていました。
室町時代に坂本で徳政一揆が起こったとき、その首謀者が真盛上人だという噂が流れ、血気にはやった比叡山の僧兵が西教寺を急襲したところ、境内に人影はなく、ただ鉦の音だけが本堂から聞こえてきました。僧兵たちが本堂に駆け込むと、そこには一匹の手白の猿が上人の身代わりとなって鉦をたたいていました。日吉山王の使者である猿までが上人の不断念仏の教化を受けて念仏を唱えていることに感じ入った僧兵たちはその場を立ち去りました。由来、真盛上人と西教寺を救った「身代わり猿」として、いまもお寺のあちこちで守護しているのだそうです。
そうと知って眺めると、宿坊の門だけでなく、本堂の屋根のほかあらゆるところに色々なポーズの猿がのっています。中には母猿・小猿も。おかげでスピリチュアルな気分はあっという間に消えて、すっかり猿ハンティングにのめりこんでしまったのですが、はっと気づくと勅使門の向こうに素晴らしい琵琶湖の風景が広がっていて息を呑みました。この風景のためにここに門を作ったとしか考えられません。
左側にきれいな三角形に見えているのが近江富士と呼ばれる皇子山です。琵琶湖は周囲ぐるりをこうした低い山々が囲んでいて、それがなんとも言えないニュアンスを生み出しているようです。
まずは下準備とびわこビジターズビューローのサイトに出ている白洲正子の愛した近江で大津付近の行きたいスポットをピックアップし、公共交通機関で一日で回れコースをメールで問い合わせました。
金曜にメールを出し、土日をはさんで月曜に戻ってきた返事はこうでした。
お問い合せの件ですが、地元に大津市びわ湖大津観光協会がございます。あのさあ、自分んとこでサイトに掲載していることについての問い合わせなんだから、責任もって答えたらどうなの? わからないんだったらこのメールを書いた人間が大津市びわ湖大津観光協会に連絡をとって聞くのが普通じゃない? まあ、100歩譲って、そこでまた私からの疑問が出ると行ったり来たりが多くなってかえって迷惑かもしれないと考えたのかもしれない。
そちらの方が、地元の観光協会ですので、詳しい情報を持っております。
大変お手数ですが、びわ湖大津観光協会***-***-****へお問い合せをお願い致します。
それでもメールで問い合わせをしている相手に電話番号だけ知らせるってどうなの? ひょっとしてホームページも問い合わせ先メールアドレスもないところなのかしら、と善意に解釈して検索してみたら、なんだ、ちゃんとあるじゃない。なのに長距離電話をかけて聞けと答えたわけね。
私も今年の3月まで同じような仕事をしていたので、相手の怠慢というか気配りのなさが腹にすえかね、大津市びわ湖大津観光協会に同じ内容の問い合わせをメールするときによけいなひとこと(よそに回すにしても電話だけでなくHPのURLやメールアドレスも教えてくださったら親切ですのにね。こちらからはメールで問い合わせているんですから)を付け加えてしまい、さらにはそれをびわこビジターズビューローにC.C.で送るという大人げない対応を。あっはっは。
そのせいかどうか、今回はいたれりつくせりの返事があり、送られてきたパンフレットにはたくさんの付箋が貼られていて親切きわまりない対応でした。大津の絵葉書まで同封されてた。
京都から新快速で石山へ。いったん駅から出て少し歩くとすぐに京阪の石山駅です。ここで湖都古都・おおつ1dayきっぷ(500円)に日付スタンプを押してもらいます。これで今日一日京阪石山坂本線と京津線に乗り放題。それだけでも元がとれるのに主な観光名所やお寺、さらにはお昼に行くつもりの鶴喜蕎麦でも10%割引になるうえ、比叡山に登る坂本ケーブルは20%引きになります。これは絶対に買わなくては損。
ホームに停車している列車を見てびっくり。車体一面に機関車トーマスが! 先日の忍野八海行きのバスより徹底してます。しかしトーマスの著作権者は儲かってるなあ。私たちが乗る列車がホームに入ってくるとさらにびっくりしました。2両編成の1両目がブルー、2両目がピンクという色合わせにも驚いたのですが、停まってみると外側も内側も「けいおん!」だらけのアニメ列車だったのです。
乗ってくるのはカメラを持った若者だらけで、みんな座席に腰もおろさず車内をくまなく撮影しています。明らかにこのために来ていると思われる人たちばかり。旅行目的で乗ってたのなんて、私たちと地元民らしきおばさんだけじゃないかな。外国人もせっせと写真を撮っていました。日本のアニメファンの人多いもんね。
ようやく電車が動き出し、まずは最初の目的地、石山寺に。平安時代に宮廷の女人たちがこの寺の観音堂に参籠し、読経しながら一夜を過ごすのが流行ったのだそうで、紫式部はここで「源氏物語」の想を練ったと言われています。清少納言、和泉式部、藤原道綱の母、菅原孝標の女などもこの寺のことを日記や随筆に記していたとか。もっと後の時代になると、松尾芭蕉や島崎藤村も訪れているんですって。友人が見た映画「源氏物語」にはここで撮影されたシーンがあったそうです。境内には紫式部の像や不気味なロボットによる説明コーナーなどもありましたが、『源氏物語』をきちんと読んだことのない私には猫に小判。ふーん、としか思えなかった。
次は三井寺。桜並木に囲まれた疎水沿いに歩いていくと着きます。この疎水のあたりはとても素敵で、ぜひまた桜の季節に来たいと思いました。このあたりだと人混みもそれほどひどくないそうです。
ここも石山寺に負けず劣らず広い寺で、私たちが入った入口からかなりの石段を登ってようやく西国十四番札所観音堂に着き、やれやれと思って案内図をよく見ると、このあたりは寺の敷地のほんの一部で、まだまだもっと横のほうに広がっていて重要文化財の建物がごろごろ建っているのでした。知らずに階段を降りて帰ってしまうところだった。
ここの一切経蔵は室町初期の建物を山口県・国清寺から移築したものだそうですが、屋根のカーブが実に優美で美しく、堂内の装飾も華麗です。本堂は桃山時代を代表する名建築だそうで、例の秘仏がまつられています。
西教寺は聖徳太子が恩師のために創建したと伝えられる寺で、久しく荒廃していたものを慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としたのだそうです。それだからか、門を入ると道の両側に全国各地の寺院専用の宿坊が並んでいます。全国に約四百余りあるという末寺のお坊さんたちがここに滞在して念仏三昧の日々を送るのでしょうか。
いつ行ってみても、本堂の中から、鉦の音とともに念仏の声が聞えて来るが、これを「不断念仏」と称し、近所の信者たちによって毎日つづけられているという。本堂の正面には、一万日ごとに建てた石碑が残っており、最近十七万日の碑が建った。一万日といえば二十七、八年になり、十七万でちょうど室町時代に遡る。それらの碑は真盛上人の回向のために建てられたもので、実際には平安時代からつづいていたのであろう。驚くべき信仰の強さで、比叡山の奥の深さを物語っている。私たちがいる間にこの鉦と念仏の主が交代したのですが、終えた方は僧服を着た尼さんのような女性で、始めた方は障子を張った低い衝立の向こうにいるのでよく見えませんでしたがお坊さんのようでした。近所の信者というよりは修行中の僧侶たちのように見えました。
本堂の前庭を囲むように立派な石垣があり、その手前に明知光秀とその妻の墓があります。さらに石垣の手前にずらっと二十五体の石で彫られた菩薩像が並んでいるのですが、これについて上記の『近江山河抄』にこう記されています。
ここで人の心をひくのは、石垣の上に並ぶ石仏群である。銘文によると、天正十二年、栗本郡の富田なにがしが、自分の娘の菩提を弔うために建てたものとかで、阿弥陀仏を中心に、菩薩たちが楽器をかなでている。何々童女とあるのは、年端も行かぬ頃亡くなったのか、仏たちの上にもあどけない表情があらわれ、見る人々の涙をさそう。この石仏が妙に白くて新しいんですよ。どう見ても天正十二年(1584年)建立とは思えない。で、近くにある立て札を見たら、傷むのを防ぐためにオリジナルは屋内に移し、模造品を立てたのだそうで。ひょっとして白洲さんの本に書かれて有名になったので、これは大事にしなくてはと移したのかもしれませんね。
ところで、総門を入ってすぐに宿坊のひとつの門の上に猿の置物がのっているのをみかけました。その宿坊だけの趣向なのかと思っていたのですが、資料館に写真がずらっと並べられ、猿の由来が書かれていました。
by timeturner
| 2011-12-24 21:05
| 旅行
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