2011年 09月 27日
浮世絵に描かれた江戸の地震~江戸庶民の対応は~ |
区内のさまざまなサークルの連絡会が主催で行われた講演に区民も参加できるというので申込をしたら当選しました。講師の森山暁子さん(きれいなピンクの和服姿!)は東京大学大学院博士課程で、若いながらも研究のかたわら講演活動も活発にされているそうで、聞き取りやすくわかりやすい話しぶりで予想以上によかったです。PCの画像をスクリーンに映し出して絵を見ながらの話だったのですが、画像の容量が大きいらしく、読み込みに時間がかかったのが唯一の難点。講演に使うときは容量を小さくしたものを使えばいいのですが、NHK所蔵の画像を借用しているそうなので勝手にいじることはできないのかもしれません。変えるならPCの性能のほうかな。
ここのところ浮世絵に興味が出てきたもので申し込んだのですが、ちょうど小布施で北斎館を訪ね、浮世絵を実際に刷る実演も見てきたので、これまでよりもっと興味をもって聞くことができました。グッド・タイミングでした。
江戸時代には大きな地震が3回あったのですが、そのうち慶安と元禄には浮世絵がまだ生れていなかったので、今回取り上げたのは安政の大地震に関連した事柄です。この地震は1855年10月2日の午後10時頃に起きたのですが、夜遅い時間で蝋燭や行灯の明かりを使っていたため、地震そのものよりも火事の被害が大きくなりました。火が鎮まるまでに約10時間かかったと言われ、死者およそ七千人、吉原も丸焼けになりました。
地震に際しての幕府の対応は非常に素早いもので、地震当夜に諸物価や工賃の値上げを禁止する令が出され、翌日には武家に向けて新築の際の派手を禁止する令、2日後には年内の行事の取止めと貸金の返済延期の令が出されています。また、お救い小屋(避難所)が作られ、死体の検分を簡素化するお触れも出されました。11月2日にはお施餓鬼の供養(合同慰霊祭)も行われています。とはいえ実際の復興にはほとんど関わってはいません。
大地震後2ヶ月くらいの間に「鯰(なまず)絵」と呼ばれる地震を扱った浮世絵がどっと(約250種)世の中に出たのですが、これのほぼ100%は署名がありません。なぜなら幕府の検閲を受けていないヤミ浮世絵だったから。浮世絵は出版物なので発行するためにはお上の検閲を受け、それに通ったものだけが出版を許されます。2年前の1853年にペリーが来航し、ただでさえ世情不安だったところにもってきての大地震だったので、幕府としては許可するわけもなく、それでも大事件について知りたい、語りたい庶民の気持を代弁したものがこの鯰絵だったようです。
安政の大地震より前に描かれた喜多川歌麿の「御殿山の花見」(下左)には美人の背後に品川の御殿山がのどかに描かれています。が、この約50年後に歌川広重によって描かれた『名所江戸百景』の中の一枚「品川御殿やま」(下右)では岸の部分が土色の段々になっています。これはペリー来航に驚きあわてた幕府が外国勢力に対抗するためお台場を造営するための土を削り取った跡です。
鯰絵の内容はさまざまで、地震で金儲けする人々(材木問屋、大工など)を皮肉ったもの(下左)、歌舞伎のパロディで面白おかしく笑うもの、地震は世直しの兆しではないかと示唆するもの(下右=鯰が人を助けている)」などですが、いずれも大災害を扱っているにも関わらず明るく前向きなのが特徴です。被害の悲惨さをおどろおどろしく描いたものはありません。まあ、実際に被害にあった庶民がそんなものを(かけ蕎麦一杯程度の値段ではありますが)お金を出して買いたいとは思わないですもんね。
そもそも地面の下の鯰が暴れることで地震が起こるという言い伝えから地震というと鯰が出てくるわけですが、ふだん地震が起きないのはこの鯰を要石(かなめいし)でおさえているからで、その石をおさえているのは武甕槌神(たけみかづちのかみ=鹿島神宮の祭神)。というわけで鯰絵には鯰のほかにこの神様がよく描かれています(右図)。
東日本大震災後に朝日新聞の「天声人語」が、東京タワーの先端が曲がったことと安政の大地震で浅草寺五重塔の先端の九輪が曲がったことを重ねて書いていたそうですが、その浅草寺の九輪が曲った絵も見せてもらいました。なるほど、東京タワーの曲り具合とそっくりです。ああいう形状のものは同じような被害を受けるんでしょうかね。
浮世絵には地震後の復興の様子も描かれているという例で広重の『名所江戸百景』の中の「下谷広小路」(下左)「浅草金龍山」(下中)「佃島住吉の祭」(下右)が紹介されました。
「下谷広小路」は上野広小路のことで、地震(火事)で破壊された呉服屋「松阪屋」が約1年後に再開店したときの様子(3日間で三千両の商いだったとか)を描いたもの。講師によると松阪屋がスポンサーになったのではないかとのことでした。「浅草金龍山」では九輪が修復された浅草寺五重塔が右側に見えています。「佃島住吉の祭」は地震の2年後に発行されたものですが、前年は地震被害のために住吉の祭りは中止になったため、その再開と賑わいを祝って描かれたのではないかとのことです。
会場に足を踏み入れたときには平均年齢70歳くらいの集団に圧倒され不安だったのですが、予想外に充実した内容でおおいに楽しむことができました。(案の定)痛む足腰をおして出かけていってよかった。
ここのところ浮世絵に興味が出てきたもので申し込んだのですが、ちょうど小布施で北斎館を訪ね、浮世絵を実際に刷る実演も見てきたので、これまでよりもっと興味をもって聞くことができました。グッド・タイミングでした。
江戸時代には大きな地震が3回あったのですが、そのうち慶安と元禄には浮世絵がまだ生れていなかったので、今回取り上げたのは安政の大地震に関連した事柄です。この地震は1855年10月2日の午後10時頃に起きたのですが、夜遅い時間で蝋燭や行灯の明かりを使っていたため、地震そのものよりも火事の被害が大きくなりました。火が鎮まるまでに約10時間かかったと言われ、死者およそ七千人、吉原も丸焼けになりました。
地震に際しての幕府の対応は非常に素早いもので、地震当夜に諸物価や工賃の値上げを禁止する令が出され、翌日には武家に向けて新築の際の派手を禁止する令、2日後には年内の行事の取止めと貸金の返済延期の令が出されています。また、お救い小屋(避難所)が作られ、死体の検分を簡素化するお触れも出されました。11月2日にはお施餓鬼の供養(合同慰霊祭)も行われています。とはいえ実際の復興にはほとんど関わってはいません。
大地震後2ヶ月くらいの間に「鯰(なまず)絵」と呼ばれる地震を扱った浮世絵がどっと(約250種)世の中に出たのですが、これのほぼ100%は署名がありません。なぜなら幕府の検閲を受けていないヤミ浮世絵だったから。浮世絵は出版物なので発行するためにはお上の検閲を受け、それに通ったものだけが出版を許されます。2年前の1853年にペリーが来航し、ただでさえ世情不安だったところにもってきての大地震だったので、幕府としては許可するわけもなく、それでも大事件について知りたい、語りたい庶民の気持を代弁したものがこの鯰絵だったようです。
安政の大地震より前に描かれた喜多川歌麿の「御殿山の花見」(下左)には美人の背後に品川の御殿山がのどかに描かれています。が、この約50年後に歌川広重によって描かれた『名所江戸百景』の中の一枚「品川御殿やま」(下右)では岸の部分が土色の段々になっています。これはペリー来航に驚きあわてた幕府が外国勢力に対抗するためお台場を造営するための土を削り取った跡です。
鯰絵の内容はさまざまで、地震で金儲けする人々(材木問屋、大工など)を皮肉ったもの(下左)、歌舞伎のパロディで面白おかしく笑うもの、地震は世直しの兆しではないかと示唆するもの(下右=鯰が人を助けている)」などですが、いずれも大災害を扱っているにも関わらず明るく前向きなのが特徴です。被害の悲惨さをおどろおどろしく描いたものはありません。まあ、実際に被害にあった庶民がそんなものを(かけ蕎麦一杯程度の値段ではありますが)お金を出して買いたいとは思わないですもんね。
そもそも地面の下の鯰が暴れることで地震が起こるという言い伝えから地震というと鯰が出てくるわけですが、ふだん地震が起きないのはこの鯰を要石(かなめいし)でおさえているからで、その石をおさえているのは武甕槌神(たけみかづちのかみ=鹿島神宮の祭神)。というわけで鯰絵には鯰のほかにこの神様がよく描かれています(右図)。
東日本大震災後に朝日新聞の「天声人語」が、東京タワーの先端が曲がったことと安政の大地震で浅草寺五重塔の先端の九輪が曲がったことを重ねて書いていたそうですが、その浅草寺の九輪が曲った絵も見せてもらいました。なるほど、東京タワーの曲り具合とそっくりです。ああいう形状のものは同じような被害を受けるんでしょうかね。
浮世絵には地震後の復興の様子も描かれているという例で広重の『名所江戸百景』の中の「下谷広小路」(下左)「浅草金龍山」(下中)「佃島住吉の祭」(下右)が紹介されました。
「下谷広小路」は上野広小路のことで、地震(火事)で破壊された呉服屋「松阪屋」が約1年後に再開店したときの様子(3日間で三千両の商いだったとか)を描いたもの。講師によると松阪屋がスポンサーになったのではないかとのことでした。「浅草金龍山」では九輪が修復された浅草寺五重塔が右側に見えています。「佃島住吉の祭」は地震の2年後に発行されたものですが、前年は地震被害のために住吉の祭りは中止になったため、その再開と賑わいを祝って描かれたのではないかとのことです。
会場に足を踏み入れたときには平均年齢70歳くらいの集団に圧倒され不安だったのですが、予想外に充実した内容でおおいに楽しむことができました。(案の定)痛む足腰をおして出かけていってよかった。
by timeturner
| 2011-09-27 18:45
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