2018年 02月 02日
見てしまう人びと 幻覚の脳科学 |
部屋の中を漂う青いハンカチ、巨大なクモ、身長15センチの小人、同じ服装で同じ動作をする人々の長い列、ずらりと並ぶ顔・顔・顔――話し声から虚空に浮かぶ文字や音符、果ては場違いな匂いや悪臭、いない人の声まで、どう考えてもそこにないはずのものが見えたり聞こえたりする人々の症例と医学的解釈についての本です。
サックスの本は前に『妻を帽子とまちがえた男』を読みましたが、豊富な臨床例をもとに人の脳の不思議をわかりやすく解き明かしてくれ、さらには人間という器の驚異にも気づかせてくれます。
幻覚とは外的現実がまったくないのに生まれる知覚、つまりそこにないものを見たり聞いたりすることですが、サックスによれば狂気の徴候でも不名誉なことでもなく、それは他に類のないカテゴリーの意識であり、精神生活なのです。
幻覚と最初に聞いて思いつくのは幻視、つまり「お化けが見える」ですが、それ以外にも幻聴、幻臭、幻味、幻肢といったものや、ドッペルゲンガーのような幻身もあります。
それにしても、精神障害以外の原因で幻覚が生まれることがこんなに多いとは知りませんでした。交通事故や病気などによる脳の損傷、癲癇発作、薬物使用、精神的トラウマ、睡眠不足、ストレス、老化など、人間が生きていれば経験するありとあらゆることが原因となって幻覚は生まれます。他人事だと安心してはいられません。
実際、これを読んだあとしばらくは、夜、暗い中で家の中を歩くのが怖かった。お化けなんかいないと思っていたって、老化による幻視はあり得るわけだから、そんなものを見ちゃったらどうしようという恐怖。なので、その手のことに弱い人は読まないほうがいいです。
私がいちばん興味深かったのは、ここに記録されている幻覚症状のほとんどは、これまで読んだ小説の中に描き出されていたということ。小説家というものはそういう現象に興味があり、見聞きすることも多く、想像力も豊かだし、薬物使用の経験がある人も多いから、当然だとも言えるのでしょうね。つい最近読んだニール・ゲイマンの『アメリカン・ゴッズ』にもCBS(シャルル・ボネ症候群)そっくりの描写がありました。
孤立した状態、または真っ暗な状態に閉じ込められている人々を、鮮やかな色つきの変化に富んだ一連の幻覚が慰めたり苦しめたりする現象を「囚人の映画」と呼ぶのだそうです。これは囚人にだけ起こる特殊なものではありません。
長期間にわたる静寂や単調な聴覚刺激による幻聴は私も経験したことがあるかも。
わが家にはテレビもラジオもないので、ふだん家の中には音がありません。で、これまでに時々、人の話し声やなんだかわからない音が外から聞こえてきて、それがどこから聞こえてくるのかと窓やベランダのガラス戸を開けて確かめようとしたことが何度かあります。いずれの場合も音源は確認できなかったのですが、もしかしたら幻聴だったのかもしれません。あと、シャワーを浴びているときによく、玄関のチャイムや電話、目覚まし時計の音が聞こえることもあります。シャワーを止めると音も聞こえなくなります。
サックス自身は片頭痛の持病があり、幼い頃から片頭痛による幻覚を経験しています。具体的な形をもった幻覚ではなく、幾何学模様が見えるのだそうですが、この幾何学模様の幻視は美術史とも関係しています。
以下、作家・芸術家と関連する部分をアットランダムに抜き出しておきます。
アメリカのある女性患者は、それまで宗教にも政治にも関心がなかったのですが、恍惚発作の際に天使の姿と声をした神から議員に立候補するよう命じられ、共和党から立候補しました。選挙運動中、神から命じられたのだと明言していたにも関わらず、大勢の人が投票して、僅差で敗れたのだそうです。
ここで思い出すのはジャンヌ・ダルクですが、彼女の場合は時代が古すぎて記録が充分ではないのではっきりとはわからないようです。
言葉の問題で面白いなと思ったこと。
【誤植メモ】p.265 4行目 私自身もそんな経験することが⇒私自身もそんな経験をすることが
見てしまう人びと:幻覚の脳科学
原題:Hallucinations
作者:オリヴァー・サックス
訳者:大田直子
出版社:早川書房
ISBN:4152094966
サックスの本は前に『妻を帽子とまちがえた男』を読みましたが、豊富な臨床例をもとに人の脳の不思議をわかりやすく解き明かしてくれ、さらには人間という器の驚異にも気づかせてくれます。
幻覚とは外的現実がまったくないのに生まれる知覚、つまりそこにないものを見たり聞いたりすることですが、サックスによれば狂気の徴候でも不名誉なことでもなく、それは他に類のないカテゴリーの意識であり、精神生活なのです。
幻覚と最初に聞いて思いつくのは幻視、つまり「お化けが見える」ですが、それ以外にも幻聴、幻臭、幻味、幻肢といったものや、ドッペルゲンガーのような幻身もあります。
それにしても、精神障害以外の原因で幻覚が生まれることがこんなに多いとは知りませんでした。交通事故や病気などによる脳の損傷、癲癇発作、薬物使用、精神的トラウマ、睡眠不足、ストレス、老化など、人間が生きていれば経験するありとあらゆることが原因となって幻覚は生まれます。他人事だと安心してはいられません。
実際、これを読んだあとしばらくは、夜、暗い中で家の中を歩くのが怖かった。お化けなんかいないと思っていたって、老化による幻視はあり得るわけだから、そんなものを見ちゃったらどうしようという恐怖。なので、その手のことに弱い人は読まないほうがいいです。
私がいちばん興味深かったのは、ここに記録されている幻覚症状のほとんどは、これまで読んだ小説の中に描き出されていたということ。小説家というものはそういう現象に興味があり、見聞きすることも多く、想像力も豊かだし、薬物使用の経験がある人も多いから、当然だとも言えるのでしょうね。つい最近読んだニール・ゲイマンの『アメリカン・ゴッズ』にもCBS(シャルル・ボネ症候群)そっくりの描写がありました。
数時間たつと、色の塊がパッパッと視界のあちこちに浮かび、深紅や金色の花が、まるで生きているかのように脈打った。あるCBS患者が「物は見えますが人は見えません。作付けされた畑や、花が咲いているところや、いろんな形の中世の建物が見えます。現代のビルがもっと歴史的な外観の建物に変わるのをよく見ます」と語っていますが、ひょっとしたらJ・B・プリーストリーの「The Statues」はこうした幻覚からもたらされたのでは? 彼はダンの時間理論に傾倒していたので、自分が見た幻覚をタイムワープによって見えたと考えたのではないかと思ったりしました。
孤立した状態、または真っ暗な状態に閉じ込められている人々を、鮮やかな色つきの変化に富んだ一連の幻覚が慰めたり苦しめたりする現象を「囚人の映画」と呼ぶのだそうです。これは囚人にだけ起こる特殊なものではありません。
幻覚を生じさせるのに完全な視覚遮断は必要なく、目に見えるものが単調なだけで、まったく同じ結果になりえる。だから昔から、船乗りは何日も穏やかな海を見つめていると幻を見る(おそらく聞きもする)と言われているのだ。何もない砂漠を行く旅人や、広大で単調な氷景を行く極地探検隊も同じだ。第二次大戦直後、そのような幻視は、何時間も何もない高高度の空を飛ぶパイロットにとって特別な危険因子と認識されたし、何時間も果てしなく続く道路に注意を集中する長距離トラックドライバーにとっても危険である。何時間も続けてレーダー画面を監視するパイロットやトラック運転手をはじめ、視覚刺激が単調な仕事をする人々はみな、幻視を起こしやすい(同時に、聴覚刺激が単調な場合は幻聴につながるおそれがある)。シュペルヴィエルの『海に住む少女』やコナン・ドイルの「大空の恐怖」を思い出しません?
長期間にわたる静寂や単調な聴覚刺激による幻聴は私も経験したことがあるかも。
わが家にはテレビもラジオもないので、ふだん家の中には音がありません。で、これまでに時々、人の話し声やなんだかわからない音が外から聞こえてきて、それがどこから聞こえてくるのかと窓やベランダのガラス戸を開けて確かめようとしたことが何度かあります。いずれの場合も音源は確認できなかったのですが、もしかしたら幻聴だったのかもしれません。あと、シャワーを浴びているときによく、玄関のチャイムや電話、目覚まし時計の音が聞こえることもあります。シャワーを止めると音も聞こえなくなります。
サックス自身は片頭痛の持病があり、幼い頃から片頭痛による幻覚を経験しています。具体的な形をもった幻覚ではなく、幾何学模様が見えるのだそうですが、この幾何学模様の幻視は美術史とも関係しています。
実のところ片頭痛で生じるような模様は、イスラム芸術、古代ギリシャ・ローマや中世のモチーフ、メキシコのサポテカ族の建築物、オーストラリアのアボリジニ芸術の樹皮絵画、アメリカ先住民のアコマ族の陶器、アフリカのスワジ族の籠細工など、ほぼあらゆる文化に何万年も前から見られる。作者の薬物耽溺歴にも驚きました。学問のためとはいえ、それをこうして書いてしまうのも凄いと思った。
以下、作家・芸術家と関連する部分をアットランダムに抜き出しておきます。
ルイス・キャロルに古典的片頭痛があったことは有名で、その片頭痛体験から不思議の国のアリスに出てくる大きさや形の奇妙な変化が生まれたのかもしれないと言われている。
記憶というのは、プルーストの言う記憶という貯蔵庫にしまわれた瓶詰とはちがって、固定も凍結もされていなくて、回想されるたびに変形され、再構築され、再分類されることが、現在では知られている。癲癇だったドストエフスキーは何度も、究極の真実の啓示であり、神を直接かつ正しく知ることだと思われた恍惚発作を経験していますが、それと同時に人生後半の創造力が最も高まった時期には人格が少しずつ変わっていったのだそうです。
小さいころ、私は数学に異常な才能を示したが、まったく芽の出ない青年期にすっかり失ってしまった。だがこの才能のせいで、扁桃腺炎や猩紅熱との闘病がさらに悲惨なことになった。痛む脳のなかで、巨大な球体と天文学的な数字がどんどん膨らんでいくのを感じたのだ。(『ナボコフ自伝』)
10年にわたって世界中を旅し、動植物の標本を集めて進化の問題を考えていたアルフレッド・ラッセル・ウォレスが、1858年、マラリアの発熱発作中に突然、自然淘汰の考えを思いついた。この説を提案するウォレスからの手紙に遅れてはならじとのプレッシャーを感じて、ダーウィンは翌年に『種の起源』を出版している。
アリシア・ヘイターは著書『アヘンと恋愛想像力』のなかで、イタリアの画家であるピラネージは「マラリアで譫妄状態だったときに、幻想の牢獄の版画を思いついたと言われている」と書いている。
(エドガー・アラン)ポーは入眠時幻覚によって想像力がたくましく豊かになると感じ、自分が見た異様なものをメモできるように、幻覚を見ているあいだに突然身を起こして完全に目を覚まし、そのメモをたびたび自分の詩や短篇に織り込んだ。ポーの作品を見事に翻訳していたボードレールは、そのような幻影の独自性にも興味をそそられ、とくにアヘンやハシシで促進されているものに魅了された。
モーパッサンはこれ(「オルラ」)を書いた当時、しばしば自身の分身を見ていた。つまり自己像幻視を起こしていた。友人に語ったところでは、「帰宅するとほとんどいつも自分の分身が見える。ドアを開けると、肘掛椅子に自分がすわっているのが見えるんだ。見た瞬間幻覚だとわかる。しかし、異常なことじゃないか? 冷静な頭の持ち主でなかったら、怖くてたまらないだろうね」
モーパッサンはこの時点で神経梅毒をわずらっていて、病気がさらに進行すると、鏡に映った自分を認識できなくなり、鏡のなかの自分の像にあいさつし、おじぎをし、握手をしようとしたと言われている。
(神経学者ゲシュウィンドは)ドストエフスキーが道徳規範と適切な行為に脅迫的に執着するようになっていったこと、「つまらない口論に巻き込まれる」傾向が強くなったこと、ユーモアを解する心が欠如していること、セックスに対して比較的無関心なこと、気高く真面目であるにもかかわらず「ちょっとした挑発にもすぐに腹を立てる」ことを指摘した。ゲシュウィンドが「発作間人格症候群」と名づけた状態にある患者は、宗教への強いこだわりを示すほか、何かを書かずにいられない衝動にかられたり、芸術や音楽への異常に強い情熱を見せたりすることがあるそうです。
アメリカのある女性患者は、それまで宗教にも政治にも関心がなかったのですが、恍惚発作の際に天使の姿と声をした神から議員に立候補するよう命じられ、共和党から立候補しました。選挙運動中、神から命じられたのだと明言していたにも関わらず、大勢の人が投票して、僅差で敗れたのだそうです。
ここで思い出すのはジャンヌ・ダルクですが、彼女の場合は時代が古すぎて記録が充分ではないのではっきりとはわからないようです。
言葉の問題で面白いなと思ったこと。
悪夢を表す「nightmare」の「mare」はもともと、眠っている人の胸の上にもたれかかって呼吸を妨げる、悪魔のような女性のことを指していた(この女性はニューファンドランドでは「オールド・ハグ(鬼婆)」と呼ばれていた)。それで精神医学の分野では、一般的な悪夢である「nightmare」と区別するために、ナルコレプシー患者が経験する呼吸困難や睡眠麻痺を伴う悪夢を「night-mare」と綴って区別しているのだそうです。
【誤植メモ】p.265 4行目 私自身もそんな経験することが⇒私自身もそんな経験をすることが
見てしまう人びと:幻覚の脳科学
原題:Hallucinations
作者:オリヴァー・サックス
訳者:大田直子
出版社:早川書房
ISBN:4152094966
by timeturner
| 2018-02-02 19:00
|
Comments(2)
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by
y.saito
at 2020-10-14 11:59
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『誤作動する脳』というレビー小体型認知症の人が書いた本では、五感の情報が脳で誤って認識され、その延長で、幻覚を見るとありました。
普通に道を歩いていても、目から入る情報を脳が正しく処理してくれないとこんな風になるのだよという体験談がとても新鮮でした。
この本を読んだ後、精神障害者の人を連れた人が道路を渡ろうとしているところに出会い、障害者がなかなか一歩を踏み出せず、なんとかわたりきったところで、歩道側にまた一歩が踏み出せないと言うのを目撃しました。
歩道から道路へは段差があります。
この本によると、その段差が断崖絶壁に見えるのだそうです。
自分が見たり聞いたり感じたりすることが、脳の処理能力によるものだと言うことが嫌と言うほどわかり、自分の見ているものが人の見ているものと同じだという保証はあまりないのではないかと思えてきます。
『見てしまう人びと』もいつか読んでみたいと思いました。
普通に道を歩いていても、目から入る情報を脳が正しく処理してくれないとこんな風になるのだよという体験談がとても新鮮でした。
この本を読んだ後、精神障害者の人を連れた人が道路を渡ろうとしているところに出会い、障害者がなかなか一歩を踏み出せず、なんとかわたりきったところで、歩道側にまた一歩が踏み出せないと言うのを目撃しました。
歩道から道路へは段差があります。
この本によると、その段差が断崖絶壁に見えるのだそうです。
自分が見たり聞いたり感じたりすることが、脳の処理能力によるものだと言うことが嫌と言うほどわかり、自分の見ているものが人の見ているものと同じだという保証はあまりないのではないかと思えてきます。
『見てしまう人びと』もいつか読んでみたいと思いました。
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timeturner at 2020-10-14 14:05
> y.saitoさん
自分ひとりだけが本当の姿を見ていて、まわりの人はみんな感覚を狂わされているという話はSFや怪奇小説に出てきますね。
目が悪くなって、道路の段差に気づかずころびそうになったことが何度もあるので、最近では店の戸口とか、歩道と車道の境目とか、段差がありそうな場所にさしかかると、実際にはないのに段差があるように見え、探るように足を出してしまいます。これもまた脳が指令を出しているんでしょうね。
自分ひとりだけが本当の姿を見ていて、まわりの人はみんな感覚を狂わされているという話はSFや怪奇小説に出てきますね。
目が悪くなって、道路の段差に気づかずころびそうになったことが何度もあるので、最近では店の戸口とか、歩道と車道の境目とか、段差がありそうな場所にさしかかると、実際にはないのに段差があるように見え、探るように足を出してしまいます。これもまた脳が指令を出しているんでしょうね。