2017年 05月 11日
ポーランドのボクサー |
69752。ポーランド生まれの祖父の左腕には色褪せた緑の5桁の数字があった――アウシュヴィッツを生き延び、戦後グアテマラにたどり着いた祖父の物語の謎をめぐる表題作ほか、ユダヤ系グアテマラ人という独特の少数民族である作者が、自身のルーツとアイデンティティを探究し、それを独特のオートフィクション的手法で探究した短編集。
かなり手強かった。そもそもこの本は、カバーの絵とタイトルの「ボクサー」を見てパスしていたんだけど、日本翻訳大賞を受賞(もう一作は『すべての見えない光』)したので手にとってみたもの。
金持ちの子女がほとんどの向学心のない学生を相手にグアテマラの大学で文学を教える作家の「私」が、きらっと光る詩人の魂をもった奨学生フアン・カレルと出会う最初の「彼方の」はとてもわかりやすく魅力的だし、アメリカ南部の大学で行われたマーク・トウェインに関する会議に出席する「トウェインしながら」もほのかにユーモラスで読みやすいし、その次の「エピストロフィー」はセルビア系ジプシーの天才ピアニストとの遭遇を描いたスリリングな内容で、なるほど、こうしてさまざまなエピソードを連ねて主人公の心象をモザイクのように敷き詰めて、最後になんらかの結論を見せる連作短編集なんだなと思ったのですが、そこから先が迷路だった。
とにかく、時間も場所もなんの脈絡もなく(と思える)行ったり来たりするし、初めのほうに出てきた魅力的なキャラクター(奨学生とピアニスト)はいつの間にか消えてしまうし、ユダヤ人収容所を生き延びた作家の祖父の経験談はどんどん形を変えていくし、やがて恋人までも作品と作品の隙間に消えてしまう。
ひとつひとつの短編は面白くないわけではないし、はっと思えるような文体(短い文章を畳み掛けるようにして緊張感を高めるなど)の妙や、ユニークで美しい比喩もたくさんあるのだけれど、何かこう、まとまりが悪いというか、作者自身がまだ何もつかめていないんじゃないかと思わせる混乱がある。
訳者あとがきには「ハルフォンは語られた内容や意味そのものよりも『語る』(あるいは『騙る』)という行為自体に、言うなれば文学的真実のメカニズムそのものに取り憑かれているようだ」と書いてあり、そういうことなのかなと思ったりもしたけど、それ以外にこの本が本来の発表順ではない構成になっているという点も関係していると思う。
グアテマラで刊行された短編集『ポーランドのボクサー』と中編小説『ピルエット』『修道院』の中身をばらばらにし、それを並べ替えてオリジナルに構成したのだそうで、英語版など他の言語で出すときにも同様のシャッフルがされているそう。
なるほど確かに、全部を読み終えてからもう一度、本来の順序で読んでみると、混乱は少なくなり、素直に読める。これでよかったんじゃない?と横着な読者である私は思うのだけれど、常に自ら作りだしたものを破壊して新しいものを求める作家魂からするといやなのかな。(だったら新しい作品を書けよ、という気もするけど)
彼方の(『ポーランドのボクサー』所収短編)
トウェインしながら(『ポーランドのボクサー』所収短編)
エピストロフィー (『ピルエット』二章、『ポーランドのボクサー』所収短編が原型)
テルアビブは竈のような暑さだった(『修道院』一章)
白い煙(『修道院』一章、『ポーランドのボクサー』所収短編が原型)
ポーランドのボクサー(『ポーランドのボクサー』所収短編)
絵葉書(『ピルエット』三章)
幽霊(『ピルエット』一章)
ピルエット(『ピルエット』四章)
ポヴォア講演(『ポーランドのボクサー』所収短編)
さまざまな日没(『修道院』三章)
修道院(『修道院』四章)
差別され迫害される少数民族であるユダヤ人に対置させるようにジプシーが出てくるのだけれど、セルビアでジプシーがこんなふうに扱われているとは知らなかったので驚いた。でもまあ、表面には出てこなくても、どの国もその国のジプシー(被差別賤民)を抱えているのでしょうね。
そのジプシーの話の中に『ジプシー民話集 ウェールズ地方』で紹介されていたブラック・エレンの語りのエピソードが出てきて、へえっと思いました。ひょっとしたら原典は同じなのかもしれない。で、"Tshiocha"と"Cholova"の本来の意味はこっちなんじゃないかという気がする。
ポーランドのボクサー (エクス・リブリス)
原題:El Boxeador Polaco
作者:エドゥアルド・ハルフォン
訳者:松本健二
出版社:白水社
ISBN:4560090459
かなり手強かった。そもそもこの本は、カバーの絵とタイトルの「ボクサー」を見てパスしていたんだけど、日本翻訳大賞を受賞(もう一作は『すべての見えない光』)したので手にとってみたもの。
金持ちの子女がほとんどの向学心のない学生を相手にグアテマラの大学で文学を教える作家の「私」が、きらっと光る詩人の魂をもった奨学生フアン・カレルと出会う最初の「彼方の」はとてもわかりやすく魅力的だし、アメリカ南部の大学で行われたマーク・トウェインに関する会議に出席する「トウェインしながら」もほのかにユーモラスで読みやすいし、その次の「エピストロフィー」はセルビア系ジプシーの天才ピアニストとの遭遇を描いたスリリングな内容で、なるほど、こうしてさまざまなエピソードを連ねて主人公の心象をモザイクのように敷き詰めて、最後になんらかの結論を見せる連作短編集なんだなと思ったのですが、そこから先が迷路だった。
とにかく、時間も場所もなんの脈絡もなく(と思える)行ったり来たりするし、初めのほうに出てきた魅力的なキャラクター(奨学生とピアニスト)はいつの間にか消えてしまうし、ユダヤ人収容所を生き延びた作家の祖父の経験談はどんどん形を変えていくし、やがて恋人までも作品と作品の隙間に消えてしまう。
ひとつひとつの短編は面白くないわけではないし、はっと思えるような文体(短い文章を畳み掛けるようにして緊張感を高めるなど)の妙や、ユニークで美しい比喩もたくさんあるのだけれど、何かこう、まとまりが悪いというか、作者自身がまだ何もつかめていないんじゃないかと思わせる混乱がある。
訳者あとがきには「ハルフォンは語られた内容や意味そのものよりも『語る』(あるいは『騙る』)という行為自体に、言うなれば文学的真実のメカニズムそのものに取り憑かれているようだ」と書いてあり、そういうことなのかなと思ったりもしたけど、それ以外にこの本が本来の発表順ではない構成になっているという点も関係していると思う。
グアテマラで刊行された短編集『ポーランドのボクサー』と中編小説『ピルエット』『修道院』の中身をばらばらにし、それを並べ替えてオリジナルに構成したのだそうで、英語版など他の言語で出すときにも同様のシャッフルがされているそう。
なるほど確かに、全部を読み終えてからもう一度、本来の順序で読んでみると、混乱は少なくなり、素直に読める。これでよかったんじゃない?と横着な読者である私は思うのだけれど、常に自ら作りだしたものを破壊して新しいものを求める作家魂からするといやなのかな。(だったら新しい作品を書けよ、という気もするけど)
彼方の(『ポーランドのボクサー』所収短編)
トウェインしながら(『ポーランドのボクサー』所収短編)
エピストロフィー (『ピルエット』二章、『ポーランドのボクサー』所収短編が原型)
テルアビブは竈のような暑さだった(『修道院』一章)
白い煙(『修道院』一章、『ポーランドのボクサー』所収短編が原型)
ポーランドのボクサー(『ポーランドのボクサー』所収短編)
絵葉書(『ピルエット』三章)
幽霊(『ピルエット』一章)
ピルエット(『ピルエット』四章)
ポヴォア講演(『ポーランドのボクサー』所収短編)
さまざまな日没(『修道院』三章)
修道院(『修道院』四章)
差別され迫害される少数民族であるユダヤ人に対置させるようにジプシーが出てくるのだけれど、セルビアでジプシーがこんなふうに扱われているとは知らなかったので驚いた。でもまあ、表面には出てこなくても、どの国もその国のジプシー(被差別賤民)を抱えているのでしょうね。
そのジプシーの話の中に『ジプシー民話集 ウェールズ地方』で紹介されていたブラック・エレンの語りのエピソードが出てきて、へえっと思いました。ひょっとしたら原典は同じなのかもしれない。で、"Tshiocha"と"Cholova"の本来の意味はこっちなんじゃないかという気がする。
ウェールズにブラック・エレンと呼ばれたジプシーの女がいた。彼女は物語の名酒だった。一晩中、ひとつの物語を延々と語り続けることができたという。ブラック・エレンは聴衆を試すために、物語の途中で急に話すのをやめて、突然「チョーチャ」と叫んだそうだ。ジプシーの言葉で「ブーツ」を意味する。聴衆が返事の代わりに「チョローヴァ」――「靴下」を意味するジプシーの言葉――と叫び返さないと、ブラック・エレンは地面から立ち上がり、スカートの裾を払って、物語を最後まで語ることなく立ち去ったと言う。
ポーランドのボクサー (エクス・リブリス)
原題:El Boxeador Polaco
作者:エドゥアルド・ハルフォン
訳者:松本健二
出版社:白水社
ISBN:4560090459
by timeturner
| 2017-05-11 19:00
| 和書
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