2016年 12月 09日
幼い子の文学 |
1976年の6月から翌年2月まで(著者の病気療養のために終了)月1回開催された、児童図書館員を対象とした講座をまとめたもの。幼年期に接する文学について、絵本、童唄、なぞなぞ、詩など分野別に考察されています。
もともとは講座で話されたことなので文章も語り口調になっていて、まるで瀬田さんからじかに話を聞いているような気分になります。残念なのはその場では紹介されていた実物の絵本や資料が小さなモノクロ写真でしか見られないということと、瀬田さんが自ら訳したものを朗読したときの声が聴けないということ、そしてご病気のために途中で終わっていること。
それにしても瀬田さんの卓越した識見には驚くしかありません。日本だけでなく世界中のお話を読み、資料に目を通し、ご自分の家でも子ども図書館を開き、ありとあらゆる道を通って児童文学と関わってらしたのだなあとひたすら敬服してしまいました。
素晴らしいのはそうした知識をただ貯めこむだけでなく、それを使って現実の子どもたちに何ができるかを常に考えてきたということ。学者が書斎にこもって論文を書くための研究ではないんですよね。
石井桃子さんの本を読んだときにも感じましたが、こうした熱意というのはどこから来るのでしょう。仕事というより天命と捉えているんじゃないかという気がします。 天命とは言っても命じているのは神様でも国でもなくて、自らの中にある子どもを慈しむ心なのかな。
読み始める前には、なぞなぞや童唄や詩には興味がないから抜かしちゃおうかなあなんて思っていたんですが、とんでもない心得違いでした。瀬田さんの話を聞いて初めて、ああ、こんなふうに読むのか、こんなふうに味わうのかとわかりました。よく炊けたごはんのように、一粒一粒が際立った文章、べちゃっとした感じがない言葉、一杯の水を思い切ってあけるような表現、そうしたものが最高のものだとすれば、ことわざやなぞなぞなどに煮詰められた遺産を、やはりもっと大事にしなければいけないと思います。
これ、小池さんの訳もよかったけれど、瀬田さんの仮訳もすてきです。そうとも、憶えているよ、アドレストロープは。
「おばあさんとぶた」のような、小さい子どもの耳に入りやすい、フィジカルな要素をそなえた単純なお話に対しては、うんと簡潔で運動量が大きい、すっと入っていける語り口の文章で訳さなければいけない、というのがぼくの意見です。
【誤植メモ】 p.134 10行目 もの実体を⇒ものの実体を p.221 3行目 それを見とれている⇒それに見とれている p.230 2行目 なんていうふうやられると⇒なんていうふうにやられると
幼い子の文学 (中公新書 (563))
作者:瀬田貞二
出版社:中央公論新社
ISBN:4121005635
もともとは講座で話されたことなので文章も語り口調になっていて、まるで瀬田さんからじかに話を聞いているような気分になります。残念なのはその場では紹介されていた実物の絵本や資料が小さなモノクロ写真でしか見られないということと、瀬田さんが自ら訳したものを朗読したときの声が聴けないということ、そしてご病気のために途中で終わっていること。
それにしても瀬田さんの卓越した識見には驚くしかありません。日本だけでなく世界中のお話を読み、資料に目を通し、ご自分の家でも子ども図書館を開き、ありとあらゆる道を通って児童文学と関わってらしたのだなあとひたすら敬服してしまいました。
素晴らしいのはそうした知識をただ貯めこむだけでなく、それを使って現実の子どもたちに何ができるかを常に考えてきたということ。学者が書斎にこもって論文を書くための研究ではないんですよね。
石井桃子さんの本を読んだときにも感じましたが、こうした熱意というのはどこから来るのでしょう。仕事というより天命と捉えているんじゃないかという気がします。 天命とは言っても命じているのは神様でも国でもなくて、自らの中にある子どもを慈しむ心なのかな。
行きて帰りし物語聴講者が図書館員20名(なんてラッキーな!)というこじんまりした講座だったそうなので(この本は瀬田さんの死後に出された)、かなり遠慮なくお話しされているようで、有名作家の作品をとりあげて「これのここが拙い」とビシビシ批評されています。
土曜日の瀬田文庫 一つの仮説 マージョリー・フラックの絵本の場合
昔話に学ぶ いくつかの類型 創作への生かし方
なぞなぞの魅力
柳田国男のなぞなぞ考 教科書のなかのなぞなぞ 北国のお年寄から聞く
神聖な遊び 知の面白さ 言葉の美しさ なぞなぞを生かした作品
童唄という宝庫
そのひろがり 子守唄――マジックとミュージック 幼な遊びの唄
子ども同士の遊びのなかで 様々な国の様々な童唄 童唄の絵本のあり方
童唄の分類例 バラードの大切さ
詩としての童謡
いい選詩集が生まれるには 詩の帖面から デ・ラ・メア、ロセッティ、
ファージョン イギリスの童謡詩人の影響 日本の童謡のなかから
七つの注文と批判
幼年物語の源流
ビアトリクス・ポターがつくった土台 アリソン・アトリーの世界
『りすと野うさぎと灰色の小うさぎ』 擬人化と背景としての自然
本物の文学が持つ強さ 上等のご馳走
幼年物語の展開
戦後イギリスの活況 ドロシー・エドワーズとBBC 子どもの日
常をとらえた物語 ルース・エインワースの特色 二つのお話を比
較する だめな幼年物語の五つのタイプ かめのシェローヴァー登場
「ねこのお客」を読む 文学としての結晶構造 新しい世界の創造
小さい子のためのお話というのは、単にわかりやすく衛生的であればいい、なんか面白い言葉が入っていればいい、といったものでは絶対ない。それが納得され、満足されるだけの強い力がそこに内在していなければ、お話は成り立たないんだということが、一つ一つの作品を具体的に検証していくなかから、おのずと浮かび上がってくるんじゃないかと思います。童謡の章の《七つの注文と批判》という項目では日本の童謡の現状について厳しい言葉が並んでいますが、いずれについても大いにうなずけました。最近でも、メディアで取り上げられて大ベストセラーになるような日本の絵本ってこういう傾向が強いと思う。
江戸時代のように、上下にわたって呼応しあう文化が、よかれあしかれ、様式としてきちっと組み立てられた時代には、言葉の洗練がすすむ。逆に、統一文化が崩されてしまうと、だんだん言葉が分解していって、粗雑な、つまらない言葉になってしまう。残念ながら、今の日本はその統一文化が崩れっぱなしという有様で、ですから言葉の洗練とはほど遠い状況です。たとえば、横文字が入ってくる。コマーシャル言葉が入ってくる、わけのわからないデパートの丁寧言葉が入ってくる。
第三に、センチメンタリティということ。これはひどいです。流行歌を通じて、センチメンタルな感覚というのがどこにもかしこにもはびこっていまして、童謡もまた例外ではない。最後の句のところに「月」が登場しないのはないみたいな……、最後にお山の上に月があがって「お母さん、遠いお空でさびしそう」とかなんとかっていうのが童謡になっちゃうんですから。そういう、自分の理性やなんかを全部締め出した挙句、とめどもなく涙にむせぶというようなだらしのない詩づくりが、詩とは言えない。この「ドンジャラホイになってしまう」っていうの、思わず笑っちゃいましたけど、感覚的にすごくよくわかります。
六番目に、これは音数律とも関係することなんですが、リズムについて、それを内的なリズムが湧きだしていくというふうに捉えていないもんだから、ドンジャラホイになってしまう。しっぽにそういうのをつけて、それでごまかしちゃうわけです。
読み始める前には、なぞなぞや童唄や詩には興味がないから抜かしちゃおうかなあなんて思っていたんですが、とんでもない心得違いでした。瀬田さんの話を聞いて初めて、ああ、こんなふうに読むのか、こんなふうに味わうのかとわかりました。よく炊けたごはんのように、一粒一粒が際立った文章、べちゃっとした感じがない言葉、一杯の水を思い切ってあけるような表現、そうしたものが最高のものだとすれば、ことわざやなぞなぞなどに煮詰められた遺産を、やはりもっと大事にしなければいけないと思います。
おおっと思ったのは、瀬田さんが昔からずっと書き抜いてきた詩の帖面からいくつかお気に入りの詩を読んだ、そのいちばん最初の詩がエドワード・トマスの「アドレストロープ」だったんです。これ、小池滋さんが編んだ『英国鉄道文学傑作選』に収録されていたもので、詩はわからないと思っていた私が感動した作品だったんです。なんだかすごくうれしくなりました。エドワード・トマスはファージョンのお気に入りの詩人だったのだそうで、『リンゴ畑のマーティン・ピピン』の中の「水車小屋の娘」はトマスをモデルにして書いたと思われると瀬田さんはおっしゃっています。
(ハーバート・)リードは、こう言っているんですね。「ある言葉は耳に快く響きますし、口にすると舌に感じのよいものです。またある言葉は魔力をもち、心を神秘感【ワンダー】でみたします。マジックとミュージック、これが最良の詩にはふたつながら具わっています。そしてそれが一緒になって、詩の特別な悦びを私たちに授けてくれます。」
われわれ当り前の人間には見えない、ある深いものを詩人が発見し、それを言葉の業を通して指し示してくれるもの、それが詩だという根本を、もう一度確認しなければいけない状況に、今はなっているように思います。
これ、小池さんの訳もよかったけれど、瀬田さんの仮訳もすてきです。そうとも、憶えているよ、アドレストロープは。
『三匹のやぎのがらがらどん』から『指輪物語』まで、小さい人から大きい人までに向けた作品をたくさん訳した瀬田さんですので、翻訳について触れたところもけっこうあり、ひとつひとつの言葉が身にしみました。というか、子ども向きの本は私にはやっぱり無理と思いました。(じゃあ大人の本なら出来るのかと訊かないで)ある暑い午後、急行列車が
不時停車したとこだ
六月の末の頃さ。
蒸気の音がした。だれかが咳払いした。
だれも降りず、だれも乗らず、
プラットホームはがらんとして
アドレストロープという駅名だけが見えた。
そして柳の木むれと柳草、下草、
しもつけ草と干し草の山があって、
ただ、森閑と、さびしく晴れわたり、
空には高い浮雲があるばかり。
すると、おりしもつぐみが一羽鳴いた。すぐそばで。
そしてそのまわりに、ずっとぼんやりだが
遠く遠く、あらゆる鳥が鳴いたんだ
それこそオックスフォード州とグロスター州じゅうの鳥が。
「おばあさんとぶた」のような、小さい子どもの耳に入りやすい、フィジカルな要素をそなえた単純なお話に対しては、うんと簡潔で運動量が大きい、すっと入っていける語り口の文章で訳さなければいけない、というのがぼくの意見です。
【誤植メモ】 p.134 10行目 もの実体を⇒ものの実体を p.221 3行目 それを見とれている⇒それに見とれている p.230 2行目 なんていうふうやられると⇒なんていうふうにやられると
幼い子の文学 (中公新書 (563))
作者:瀬田貞二
出版社:中央公論新社
ISBN:4121005635
by timeturner
| 2016-12-09 19:00
| 和書
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