2016年 06月 25日
ロゴスの市 |
昭和55年、成川弘之と戒能悠子は、大学の文芸サークルで出会った。英語という共通の興味の対象を見据えながら、ふたりは自分にないものを持つ相手に刺激され、やがて愛し合うようになるが、卒業後に一年間のアメリカ留学、帰国後に同時通訳の仕事を始めた悠子と、食うや食わずの生活の中で翻訳家としてして修業する弘之の人生は少しずつ離れていく・・・。
不思議な面白さのある小説でした。小説というより『翻訳・通訳入門』と題したノンフィクションとして売ったほうがいいのではないかと思うほど、翻訳とは、通訳とは、文学とはといった命題が繰り返し提示されては登場人物たちがそれぞれの思いを語るという形なのです。翻訳を勉強している人にはかなり勉強になると思うし、プロの翻訳家、通訳の方たちは自分のことを書かれているようで照れくさいような気持ちで読むのではないでしょうか。
とはいえ、成川弘之さんは真面目すぎ。ここまで翻訳が好きで、翻訳のことばかり考えている翻訳家なんているのかなあ。この集中力と持続力を見ていると、私にはとても無理、と思いますね。まあ、若いから頑張れたというのもあるんでしょうけど(小説は弘之の20代から50代までを描いている)。
それと、この作品が発表されたのは2015年なんですが、小説の背景は1980年なんですよね。だから、大学を卒業したばかりの弘之にも翻訳の仕事が与えられたわけだし、最初に一冊訳すオファーを出したとき編集者が「おそらく初版(の印税)で(大学)助手の年収は超えるだろう」なんて言えるんですよね。今だったらありえません。
この作品、本来は恋愛小説なんですが、肝心の恋愛部分は私には嘘くさく感じられました。男性が読めば羨ましく思うのかもしれませんが、女性から見ると《男の勝手な憧れ》が先行してて……。まあ、最初から最後まで弘之視点だから仕方がないことではありますが。
それと、翻訳や文学について考えたり話したりする部分の文章はごく自然に読めるのですが、恋愛や結婚といった生活感のある話になると文体に違和感を感じました。
ふつうの人がこんな言葉を交わすだろうかという会話が多いし、女性の話し方も不自然。キャリアを積んだ悠子と久しぶりに会った弘之が「それにしても淑やかな話し方をするようになったね」と驚くのですが、単に《ですます調》になってるだけなんですよね。大学の同期生でずっとタメ口で話していた相手が途中から《ですます調》になるのも不自然だし、それを「淑やかな話し方」と言うのも変。男性と女性では感じ方が違うし、世代や育った環境によっても違うのでしょうけど。
以下、翻訳に関する記述で覚えておきたいと思った部分をいくつか抜粋。
ところで、途中で弘之がアメリカの雑誌に掲載されたジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」に感動し、どうしても彼女の作品を訳したいと出版社に持ち込むところがあるんですが、このときは「おいおい、このまま弘之が訳したら、弘之=小川高義さんになっちゃうじゃないか」と思っていたら、結局はだめになってました。そりゃそうよねえ。
【誤植メモ】 p.222 1行目 昇りついた⇒昇りつめた
ロゴスの市 (文芸書)
作者:乙川優三郎
出版社:徳間書店
ISBN:4198640424
不思議な面白さのある小説でした。小説というより『翻訳・通訳入門』と題したノンフィクションとして売ったほうがいいのではないかと思うほど、翻訳とは、通訳とは、文学とはといった命題が繰り返し提示されては登場人物たちがそれぞれの思いを語るという形なのです。翻訳を勉強している人にはかなり勉強になると思うし、プロの翻訳家、通訳の方たちは自分のことを書かれているようで照れくさいような気持ちで読むのではないでしょうか。
とはいえ、成川弘之さんは真面目すぎ。ここまで翻訳が好きで、翻訳のことばかり考えている翻訳家なんているのかなあ。この集中力と持続力を見ていると、私にはとても無理、と思いますね。まあ、若いから頑張れたというのもあるんでしょうけど(小説は弘之の20代から50代までを描いている)。
それと、この作品が発表されたのは2015年なんですが、小説の背景は1980年なんですよね。だから、大学を卒業したばかりの弘之にも翻訳の仕事が与えられたわけだし、最初に一冊訳すオファーを出したとき編集者が「おそらく初版(の印税)で(大学)助手の年収は超えるだろう」なんて言えるんですよね。今だったらありえません。
この作品、本来は恋愛小説なんですが、肝心の恋愛部分は私には嘘くさく感じられました。男性が読めば羨ましく思うのかもしれませんが、女性から見ると《男の勝手な憧れ》が先行してて……。まあ、最初から最後まで弘之視点だから仕方がないことではありますが。
それと、翻訳や文学について考えたり話したりする部分の文章はごく自然に読めるのですが、恋愛や結婚といった生活感のある話になると文体に違和感を感じました。
ふつうの人がこんな言葉を交わすだろうかという会話が多いし、女性の話し方も不自然。キャリアを積んだ悠子と久しぶりに会った弘之が「それにしても淑やかな話し方をするようになったね」と驚くのですが、単に《ですます調》になってるだけなんですよね。大学の同期生でずっとタメ口で話していた相手が途中から《ですます調》になるのも不自然だし、それを「淑やかな話し方」と言うのも変。男性と女性では感じ方が違うし、世代や育った環境によっても違うのでしょうけど。
以下、翻訳に関する記述で覚えておきたいと思った部分をいくつか抜粋。
翻訳とは原作者に仕えながら日本語に淫し、その狭間でもがくことかもしれない。これはちょっとどうなんだろうと思ったところ。
「たとえば翻訳を目的に読むという行為には常に書くという行為が念頭にあります。愉しみの読書は展開がつまらなければやめられますが、翻訳家が途中で投げ出すことは許されません。しかも作家の味方でなくてはならない、これほど真剣な読書はないでしょう。そうして読んだものを今度は自分が作家のように書いてゆく、机に向かう姿勢は作家と同じでも、脳味噌の働き方は別です。言葉になりそうにないものを表現するのが作家なら、それをもう一度別の言葉にするのが翻訳家かもしれません。そして、そういう作業に耐えられる人は意外に少ないのです」
漂う言語の海は未知の領域であった。美しくも茫洋として、沖へ出るほどあてどない。
「世界の現実は無数の人生のシャッフルで作られているような気がします。たとえ小さな島に生まれても大きな現実の渦に巻き込まれずにはいられません。文学とはそういう個々の人生を掬い上げて世界の一部であることを知らしめることではないでしょうか。言い換えるなら世界に響く声を持たない人の通訳です」
微妙だが才能はある、と感じた弘之は大胆な訳補を考えた。翻訳がうまくゆけば日本では評価されるだろう。だがこの英文でこの描写ではアメリカでは数作で消えかねないと思うと、惜しい気がした。これ、どうなのかな? 翻訳者がそんな神視点に立っちゃっていいんだろうか? 前に池央耿さんの講演会に行ったとき、森鴎外の《原作を超えた翻訳》についてのお話がありました。鴎外訳の「冬の王」を読むと実に深みのある美しい作品なんですが、原作はドイツでも全く評価されていない駄作なんだそうです。うーん、どうなんでしょうね。翻訳家としてはダメな原作を自分の翻訳で売れる作品に仕立て上げるなんて夢のようなことに思えるでしょうが、していいことなのかなあ。いずれにせよ私にはできないことなので机上の空論ですが。
ところで、途中で弘之がアメリカの雑誌に掲載されたジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」に感動し、どうしても彼女の作品を訳したいと出版社に持ち込むところがあるんですが、このときは「おいおい、このまま弘之が訳したら、弘之=小川高義さんになっちゃうじゃないか」と思っていたら、結局はだめになってました。そりゃそうよねえ。
【誤植メモ】 p.222 1行目 昇りついた⇒昇りつめた
ロゴスの市 (文芸書)
作者:乙川優三郎
出版社:徳間書店
ISBN:4198640424
by timeturner
| 2016-06-25 19:42
| 和書
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