2015年 04月 21日
眺めたり触ったり |
翻訳家・エッセイストの青山南さんが本の楽しみ方について、いろんな方向から考えてみる。積んでおいたり、ぱらぱらめくったり、拾い読みしたり、声に出して読んだり・・・。
最初に青山さんが本を読むのがすごく遅いという話が出てきて、へえっと驚いた。翻訳家なんてみんなたくさん本を読むから、当然読む速度も速いと思っていたし、お洒落な雰囲気がある青山さんなんかは特に、英語の本でも鼻歌を歌いながらかる~く読んじゃうんだろうなと思ってたので。
この本を読んでいると読書に対する考え方も、読書の方法も、本当にいろいろあるのだなあと思います。結局はその人その人で自分に合った読み方、つき合い方をすればいいんですよね。そう思ったらなんだか気分が軽くなりました。
あれ、ってことは、今までは本を読むことに対してどこかしら重い気分を抱えていたのだろうか? 学習のために読む本はともかく、それ以外はひたすら楽しみのためにだけ読んでいると思っていたんですが、その楽しみのためにだけ読むという読み方に罪悪感を抱いていたのかもしれない。
これでもずいぶん自由になったと思ってたのになあ。図書館で借りた場合は、つまらなかったら最後まで読まずに返してしまうとか、読んでいて苛々してきたら飛ばし読みをしたり、結末を先に読んでしまうとか。昔は考えられなかったんだけどなあ、と思うところですでに、そういうことは本当はしてはいけないんだという負い目があったんだな。
この本を読むとそういう自分でも気づかずに自分を縛っていた鎖から自由になれるような気がします。
いくつかはっとしたところを抜書き。
そういえば二葉亭四迷は外国の文学は声に出して読むように書かれているのだから、同じリズム、トーンで訳さなくてはならないとか言ってましたよね。確かに英語の小説の多くは、声に出して読むと心地よいように書かれています。だからこそ昔の人たちは家族団欒の場で朗読を楽しんだりしたのでしょう。キャサリン・マンスフィールドの「At The Bay」なんて、声に出さずに読んだら魅力が三割くらい減ってしまいそうです。
ただ困るのは、最近では日本語の本を読むときでも頭の中で音読するようになったこと。読むスピードが覿面に落ちます。ただでさえ視力の低下のために速く読めなくなっているのに困ったことす。
眺めたり触ったり
作者:青山 南
イラスト:阿部真理子
出版社:早川書房
ISBN:4152081104
最初に青山さんが本を読むのがすごく遅いという話が出てきて、へえっと驚いた。翻訳家なんてみんなたくさん本を読むから、当然読む速度も速いと思っていたし、お洒落な雰囲気がある青山さんなんかは特に、英語の本でも鼻歌を歌いながらかる~く読んじゃうんだろうなと思ってたので。
この本を読んでいると読書に対する考え方も、読書の方法も、本当にいろいろあるのだなあと思います。結局はその人その人で自分に合った読み方、つき合い方をすればいいんですよね。そう思ったらなんだか気分が軽くなりました。
あれ、ってことは、今までは本を読むことに対してどこかしら重い気分を抱えていたのだろうか? 学習のために読む本はともかく、それ以外はひたすら楽しみのためにだけ読んでいると思っていたんですが、その楽しみのためにだけ読むという読み方に罪悪感を抱いていたのかもしれない。
これでもずいぶん自由になったと思ってたのになあ。図書館で借りた場合は、つまらなかったら最後まで読まずに返してしまうとか、読んでいて苛々してきたら飛ばし読みをしたり、結末を先に読んでしまうとか。昔は考えられなかったんだけどなあ、と思うところですでに、そういうことは本当はしてはいけないんだという負い目があったんだな。
この本を読むとそういう自分でも気づかずに自分を縛っていた鎖から自由になれるような気がします。
いくつかはっとしたところを抜書き。
読者の仕事は、反応すること、である。読書とは、著者の意図や目的を、それがまれですばしこい小動物であるかのごとく、追いかけまわすことではない。本を楽しむためには、本の出来がどうだこうだと考える必要などないのだ。アルファベットで書かれたものは声に出さないと意味がとれない、という指摘、なるほどっ!と膝を打ちました。というのも、英語の本を読むときには私も頭の中で音読していたんですよね。言葉を覚え始めたばかりの日本人の子どもが声を出さないと本が読めないのと同じで、英語に慣れていないからだと思っていました。
読者はみな、それぞれに認識する。書いてあることを、それぞれのじぶんの光のなかで、受けとめたり、受けとめ損なったりする。かくして、買い手あることの「意味」は、じぶんがどういう人間であるかということと密接にからまりあってくるのだ。そして、じぶんの心の変化や成長で、どんどん変わっていく。(ブルース・ウィバー/Look Who's Talking「ワシントン・スクウェア・プレス」)
本を読むというのは、本の中身を、読んだじぶんの感想に合わせて、デフォルメすることなのかもしれない。中身を忘れても、あるいは間違って記憶しても、それはそれで立派な読書なのかもしれない。
アルファベットというのは声に出されて初めて意味がたちのぼってくる。横文字を読む時は、たとえ黙読していても、頭の中で文字を声に変えて読まないと意味がとれない。それに対し、日本語は映像として読むことができる。だから同じ黙読と言っても、日本語を読んでいると喉が渇かないが、ドイツ語を読んでいると喉が渇くのだと、ある日本学者は言っていた。(多和田葉子「波」1993年11月号)
本って、まず最初は本棚に縦に並べますよね。それが前後二列になり、次に上の隙間において、最後に床に積み始める。こうなるともう際限がなくなるので、だいたいの地図を書いておくんです。どこを掘ればなにがでてくるかっていう地図をね。で、似たような分野を固めておいて、真ん中にひとがひとり通れるくらいの道をあけておくんです。(宮脇孝雄「自由時間」1992年3月19日号)
そういえば二葉亭四迷は外国の文学は声に出して読むように書かれているのだから、同じリズム、トーンで訳さなくてはならないとか言ってましたよね。確かに英語の小説の多くは、声に出して読むと心地よいように書かれています。だからこそ昔の人たちは家族団欒の場で朗読を楽しんだりしたのでしょう。キャサリン・マンスフィールドの「At The Bay」なんて、声に出さずに読んだら魅力が三割くらい減ってしまいそうです。
ただ困るのは、最近では日本語の本を読むときでも頭の中で音読するようになったこと。読むスピードが覿面に落ちます。ただでさえ視力の低下のために速く読めなくなっているのに困ったことす。
眺めたり触ったり
作者:青山 南
イラスト:阿部真理子
出版社:早川書房
ISBN:4152081104
by timeturner
| 2015-04-21 22:38
| 和書
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