2011年 11月 23日
先生 |
12月に友人と「白洲正子の歩いたかくれ里」をテーマに滋賀を旅行する予定があり、ここのところ関連する本を見ています。
その中に『白洲正子の「かくれ里」を行く』(楓 大介)という写真集がありました。白洲正子の『かくれ里』を愛読していた著者が、本の中に出てくる場所を全部回って写真を撮ろうと思い立ち、実行したものです。
それぞれの場所がいちばん映える時期を選び、時間をかけて撮ったと思われる写真ばかりで、眺める分には楽しかったけれど、いわゆるガイドブックではないのでアクセス情報などはほとんどなく、実際に行くときにはあまり参考にはならないかもしれません。
それはともかく、ひとつ違和感を感じたことがあって、妙に頭に引っかかっています。それは著者が文中でずっと「白洲先生」と書いていること。まえがきやあとがきだけでなく、本文でもそうなんですよね。それがどうにも変に感じられて・・・。
もちろん著者が白洲正子を敬愛しているから自然にそうなったんだと思いますが、一般に売られている本(自費出版で著者が知人に配るようなものは除いてという意味)でそういうのってあまり見ないような気がします。内田百閒が「漱石先生」と書くのは彼が実際に漱石に師事していたから当然だと感じるけど、単なる愛読者が公の文章の中で先生と呼ぶのは、なんだか違う気がする。
とはいうものの、どういうときに先生をつけるべきかをきちんと教わった記憶はありません。単に過去に読んだ本の中ではそうだったから、というだけなのかもしれない。
今はあまり聞かないけれど、昔「先生と 呼ばれるほどの 馬鹿でなし」という川柳がよく引き合いに出されて、学校の先生でもない人をむやみに「先生」と呼ぶもんじゃありませんと戒めたものです。作家でもそう呼ばれるのをいやがる人が多かった。それが頭に残っているせいなのかな。今はそんなこともなくなってるのかしら。
その中に『白洲正子の「かくれ里」を行く』(楓 大介)という写真集がありました。白洲正子の『かくれ里』を愛読していた著者が、本の中に出てくる場所を全部回って写真を撮ろうと思い立ち、実行したものです。
それぞれの場所がいちばん映える時期を選び、時間をかけて撮ったと思われる写真ばかりで、眺める分には楽しかったけれど、いわゆるガイドブックではないのでアクセス情報などはほとんどなく、実際に行くときにはあまり参考にはならないかもしれません。
それはともかく、ひとつ違和感を感じたことがあって、妙に頭に引っかかっています。それは著者が文中でずっと「白洲先生」と書いていること。まえがきやあとがきだけでなく、本文でもそうなんですよね。それがどうにも変に感じられて・・・。
もちろん著者が白洲正子を敬愛しているから自然にそうなったんだと思いますが、一般に売られている本(自費出版で著者が知人に配るようなものは除いてという意味)でそういうのってあまり見ないような気がします。内田百閒が「漱石先生」と書くのは彼が実際に漱石に師事していたから当然だと感じるけど、単なる愛読者が公の文章の中で先生と呼ぶのは、なんだか違う気がする。
とはいうものの、どういうときに先生をつけるべきかをきちんと教わった記憶はありません。単に過去に読んだ本の中ではそうだったから、というだけなのかもしれない。
今はあまり聞かないけれど、昔「先生と 呼ばれるほどの 馬鹿でなし」という川柳がよく引き合いに出されて、学校の先生でもない人をむやみに「先生」と呼ぶもんじゃありませんと戒めたものです。作家でもそう呼ばれるのをいやがる人が多かった。それが頭に残っているせいなのかな。今はそんなこともなくなってるのかしら。
by timeturner
| 2011-11-23 11:21
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