2011年 02月 09日
さらば青春の光 |
広告会社の郵便課で働くジミーは雑用ばかりの仕事をいやいややりながら、仕事の後や週末にモッズ仲間とつるんでスクーターで街を流したり、クラブに行ったりすることだけを楽しみに生きている。The Whoの音楽と薬も欠かせない。革ジャンにオートバイ、リーゼントのロッカーとは敵同士で、両者が出会うといつでも暴力沙汰になったが、そんな両グループが夏のブライトンに集合した・・・。
一度は見なくてはと思ってウン十年、なぜか見る機会がなく今日まできてしまいました。見てるときは「やはり若い頃に見るべきだったな」と思ったのですが、見終わっていろいろ考えるうちに、いやいや、若い頃の私には絶対理解できなかっただろう、と気づきました。
階級社会であるイギリスで労働者階級の若者たちが感じる閉塞感というのは、第二次世界大戦後の日本で育った人間にはわかんないですよ。他人のレビューを読んでいたら「ベルボーイを馬鹿にするな。もしかしたら将来社長になるかもしれないじゃないか」と書いている人がいた。アメリカだったらそういうこともあり得るけど(最近では難しいかも)、イギリスではあり得ない。少なくとも70年代だったら無理。ベルボーイはいつまでたってもベルボーイ。イギリスで労働者階級の人間が成り上がるにはフットボーラーかミュージシャンとして成功するしかないってのは誰もが認める真理ですから。ものすごーく頭がよければ奨学金もらって大学に行ったりもできるでしょうが、そんなの一握りですもんね。現実的じゃない。
だから仕事を真面目にがんばる気になれなくても当たり前。自分を大事にする気になれないのもわかる。まわりの大人を見ても幻滅しかなくて、自分も将来こんなふうに生きていくのか・・・と思っら絶望感と怒りしか感じなくなるのも容易に理解できる。薬やったり、喧嘩したり、店を壊したくなろうというものです。
でもねえ、頭ではわかってはいても、やっぱり見ていて「ばかもん! しゃきっとしろ、しゃきっと!」と思ってしまうのね。
ジミーは人と同じ生き方はいやだと言いながら、仲間と同じスタイルの服を誂え、おそろいのモッズコートを着て、いつも仲間と一緒にいる。猿のように人真似をしながら群れていることを心の奥底ではわかっているのだけれど、ほかにどうしたらいいのかわからない。「ひとかどの人物(someone)」になりたいと公言してはいても、自分がそうなれるとは信じていない。
憧れのモッズリーダー・エースだけは、そういう現実の世界のはるか上空を自由にクールに飛びまわっていると信じて、唯一のよりどころにしていたのに、そのエースもふだんの日にはただのベル・ボーイに過ぎないと知ったとき、ジミーは決断を下します。
映画のラストを、ジミーがエースのスクーターと一緒に崖下に身を投じた悲劇ととる人もいるし、ジミーはスクーターだけを崖下に落とし、自らの生を価値あるものにすべく新たに生きるために現実の世界に戻っていく再生のハッピーエンドととる人もいる。誰も乗っていないオートバイが落ちていくところがスローモーションで撮られているので(しかも撮影用のワイヤーが映っちゃってる)、前者は完全な勘違いですが、実は後者も違うと思う。どうあがいても努力しても何も変わらないんだから、もうすべてをあきらめて、何も期待せず、得られるものだけに満足して、死ぬまでの時間を埋めていこうという哀しい人間がひとり誕生した、ということなんじゃないのかな。イギリス映画ってそういうの多いですよね。ケン・ローチの映画だと、そんな哀しい人間の生き方をいとおしむような目がどこかから見てる感じがあるんですが、この映画にはないですね。突き放してる。
エースを演じたスティングが若くてめちゃめちゃとんがっててかっこいい。ベルボーイ姿のお尻がキュート!(おばさんくさー)そしてもうひとり若くて驚きの人が。あのレイ・ウィンストンがロッカーのひとりとして出ているのですが、紅顔の美青年ですよ、なんとまあ。こんな時代もあったのねえ。すでにちょっと太めではあるけど。
そういえば初めて知って驚いたこと。この頃のイギリスって銭湯があったのね! 個人主義のイギリス人ですから、もちろん大勢が一緒に入るわけではなく、バスタブだけの小さな個室がずらっと並んだもの。家にちゃんとしたお風呂のない家庭の人が利用したのでしょう。それともひょっとしてローマ時代の名残り? まさかね(^^;)。さすがに洗面器は持っていませんでしたが、タオルは持参してたみたいです。
原題:Quadrophenia(1979)
上映時間:115 分
製作国:イギリス
監督:フランク・ロッダム
出演:フィル・ダニエルズ、レスリー・アッシュ、マーク・ウィンゲット、フィリップ・デイヴィス、スティング、トーヤ・ウィルコックスほか。
一度は見なくてはと思ってウン十年、なぜか見る機会がなく今日まできてしまいました。見てるときは「やはり若い頃に見るべきだったな」と思ったのですが、見終わっていろいろ考えるうちに、いやいや、若い頃の私には絶対理解できなかっただろう、と気づきました。
階級社会であるイギリスで労働者階級の若者たちが感じる閉塞感というのは、第二次世界大戦後の日本で育った人間にはわかんないですよ。他人のレビューを読んでいたら「ベルボーイを馬鹿にするな。もしかしたら将来社長になるかもしれないじゃないか」と書いている人がいた。アメリカだったらそういうこともあり得るけど(最近では難しいかも)、イギリスではあり得ない。少なくとも70年代だったら無理。ベルボーイはいつまでたってもベルボーイ。イギリスで労働者階級の人間が成り上がるにはフットボーラーかミュージシャンとして成功するしかないってのは誰もが認める真理ですから。ものすごーく頭がよければ奨学金もらって大学に行ったりもできるでしょうが、そんなの一握りですもんね。現実的じゃない。
だから仕事を真面目にがんばる気になれなくても当たり前。自分を大事にする気になれないのもわかる。まわりの大人を見ても幻滅しかなくて、自分も将来こんなふうに生きていくのか・・・と思っら絶望感と怒りしか感じなくなるのも容易に理解できる。薬やったり、喧嘩したり、店を壊したくなろうというものです。
でもねえ、頭ではわかってはいても、やっぱり見ていて「ばかもん! しゃきっとしろ、しゃきっと!」と思ってしまうのね。
ジミーは人と同じ生き方はいやだと言いながら、仲間と同じスタイルの服を誂え、おそろいのモッズコートを着て、いつも仲間と一緒にいる。猿のように人真似をしながら群れていることを心の奥底ではわかっているのだけれど、ほかにどうしたらいいのかわからない。「ひとかどの人物(someone)」になりたいと公言してはいても、自分がそうなれるとは信じていない。
憧れのモッズリーダー・エースだけは、そういう現実の世界のはるか上空を自由にクールに飛びまわっていると信じて、唯一のよりどころにしていたのに、そのエースもふだんの日にはただのベル・ボーイに過ぎないと知ったとき、ジミーは決断を下します。
映画のラストを、ジミーがエースのスクーターと一緒に崖下に身を投じた悲劇ととる人もいるし、ジミーはスクーターだけを崖下に落とし、自らの生を価値あるものにすべく新たに生きるために現実の世界に戻っていく再生のハッピーエンドととる人もいる。誰も乗っていないオートバイが落ちていくところがスローモーションで撮られているので(しかも撮影用のワイヤーが映っちゃってる)、前者は完全な勘違いですが、実は後者も違うと思う。どうあがいても努力しても何も変わらないんだから、もうすべてをあきらめて、何も期待せず、得られるものだけに満足して、死ぬまでの時間を埋めていこうという哀しい人間がひとり誕生した、ということなんじゃないのかな。イギリス映画ってそういうの多いですよね。ケン・ローチの映画だと、そんな哀しい人間の生き方をいとおしむような目がどこかから見てる感じがあるんですが、この映画にはないですね。突き放してる。
エースを演じたスティングが若くてめちゃめちゃとんがっててかっこいい。ベルボーイ姿のお尻がキュート!(おばさんくさー)そしてもうひとり若くて驚きの人が。あのレイ・ウィンストンがロッカーのひとりとして出ているのですが、紅顔の美青年ですよ、なんとまあ。こんな時代もあったのねえ。すでにちょっと太めではあるけど。
そういえば初めて知って驚いたこと。この頃のイギリスって銭湯があったのね! 個人主義のイギリス人ですから、もちろん大勢が一緒に入るわけではなく、バスタブだけの小さな個室がずらっと並んだもの。家にちゃんとしたお風呂のない家庭の人が利用したのでしょう。それともひょっとしてローマ時代の名残り? まさかね(^^;)。さすがに洗面器は持っていませんでしたが、タオルは持参してたみたいです。
原題:Quadrophenia(1979)
上映時間:115 分
製作国:イギリス
監督:フランク・ロッダム
出演:フィル・ダニエルズ、レスリー・アッシュ、マーク・ウィンゲット、フィリップ・デイヴィス、スティング、トーヤ・ウィルコックスほか。
by timeturner
| 2011-02-09 23:20
| 映画
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